「チキンラーメン」や「カップヌードル」はとても有名なので、みなさん1度は食べたことがあるのではないでしょうか。
インスタントラーメンは食べないから…。という人でも、知っているかと思います!
このようにとても有名ですか、これらを開発して世界的にインスタントラーメンを広めることに成功した安藤百福のことを知っていますか?
安藤百福は、日清食品の創業者でもあります。
世界的な有名商品を開発することに成功したので、安藤百福のことをものすごい成功者と思う人が多いと思います。
しかし、安藤百福は事業に失敗して全財産を失ってしまい、48歳からの再出発でチキンラーメンやカップヌードルを開発したのです。
こんな経歴があったとは、驚きました。
そこで今回は、安藤百福の経歴や波乱の人生から生まれた明言などをまとめてみました。
彼の人生から学ぶことはとても多いですよ~!
安藤百福の経歴まとめ
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安藤百福は、1910年(明治43年)に台湾で生まれて幼い頃に両親を亡くし、台南市で呉服屋を営んでいる商人の祖父母に育てられました。
そのためか、小さい頃から商売に興味があり自分の身の回りのことは自分でこなすような、独立心のあふれた子供だったようです。
1932年、安藤百福は22歳の時に父の遺産を元手として最初の起業をして、伸縮性のあるメリヤスを扱った肌着や靴下の製造販売で大成功を収めました。
その後、大阪の船場で日本で仕入れた製品を台湾に輸出して販売する貿易事業も始めました。
また、光学機器や精密機械などの製造や飛行機エンジンの部品製造など幅広く事業を広げながら、立命館大学専門学部経済科の夜間部で学びました。
そして、太平洋戦争になると軍需製品なども製造して販売しましたが、部品の横流し疑惑によって憲兵隊に連行されてしまうものの、無罪で釈放された経験もあります。
大阪大空襲によって全ての事務所や工場を失いました。
そんな状況でも、安藤百福は戦後すぐに大阪で百貨店経営の事業を始めました。
しかし当時は、食糧不足によって栄養失調や飢餓で亡くなる人が多くいました。
そんな食糧不足に困る多くの人たちを見て、製塩事業や病人用の栄養食品の開発事業なども行いました。
製塩事業では、仕事が無くなってしまった失職中の復員軍人や若者たちに仕事を与えるために、海岸に鉄板を並べてその上に海水を流して塩を製造することにも成功しました。
安藤百福は一貫して、戦後の日本が立ち上がるために事業を進めていったのです。
すごいパワーの持ち主ですよね!
しかし、脱税の容疑でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕されると、巣鴨プリズンに収監されました。
安藤百福は、税務当局を相手として処分の取り消しを求めて提訴して、弁護士団と共に2年間法廷で闘いました。
そして、税務当局側から出た「提訴を取り下げることで釈放する」和解案に応じて2度目の無罪釈放となりました。
1948年、安藤百福のさまざまな事業活動の拠点として泉大津市汐見町に「中交総社」(のちに「サンシー殖産」に変更)を設立しました。
安藤百福は、食糧不足を打開するために厚生省にアメリカで余っていた小麦を使用した「麺」をもっと奨励するべきだと提案しました。
「パンに必要なおかずやスープが、麺ならば1つのどんぶりの中に麺とスープ、具材も入っていて栄養もある」と主張したのです。
それに対して厚生省は、「麺類は量産技術がない上に流通していないため、パンを利用している」とし、パンを奨励したため安藤百福の主張は拒否されました。
そして、厚生省は安藤百福に「麺を広めるために自分で研究してみてはどうか」と提案しました。
当時の安藤百福は、既存の事業以外に手を広げる余裕がなかったため、麺類の事業化までにはなりませんでした。
しかし、このことが10年後にインスタントラーメンの開発の重要なきっかけとなったのです。
安藤百福の苦労はまだまだありました。
戦後、信用組合の理事長に懇願されて就任しましたが、1957年にこの信用組合が資金繰りが難しくなり倒産、理事長の安藤百福が負債を弁済することになりました。
これによって、戦前に蓄えていた個人資産を全て失ってしまい無一文になってしまい、手元に残ったのは大阪府池田市にある借家の一軒の自宅だけでした。
そんな時、安藤百福は厚生省でのやり取りを思い出したのです。
それから再起をかけて、自宅の裏庭に小屋を建ててインスタントラーメンの研究を始めました。
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チキンラーメンの誕生!
当時はまだなかった大量生産をする技術や、即席性や保存性などを確保するため奮闘しました。
ある日、安藤百福は妻である仁子夫人が天ぷらを揚げる様子を見て、麺を油で揚げて乾燥させる「油熱乾燥法」を思い付きました。
その後、1年間をかけて開発に成功して1958年8月25日にチキンラーメンを発売しました。
どんぶりに入れてお湯を注いで待つだけで食べられる食品は、「魔法のラーメン」とまで呼ばれ一気に人気商品となりました。
この年の12月に、サンシー殖産を「日清食品株式会社」に商号変更しました。
この「日清食品」の名前の理由は、「日々清らかに豊かな味を作る」という思いが込められています。
安藤百福は以前、理事長になった信用組合の倒産による借金返済の教訓から、無借金経営を貫いて日清食品を日本を代表する食品企業に成長させることに成功しました。
チキンラーメンの好評により、粗悪品や模造品が出る疑いもあって、商標や特許を申請し登録するなどして、会社や商品の信用を守りました。
1961年、チキンラーメンの商標登録が確定し、その後製造法の特許も登録されました。
この時に類似商品によって、113社が警告を受ける事態になりました。
安藤百福は、類似商品を見過ごさない方針でしたが、1964年に日本ラーメン工業協会を設立して、メーカー各社に製法特許権を公開し譲渡しました。
その他にも、「製造年月日表示」を始めたりするなど、食品業界全体の品質の維持や向上に努めました。
ちなみに、製造年月日の表示は関西主婦連合会の会長だった、比嘉正子の勧めがあって決断したそうです。
カップヌードルの誕生!大ヒットにはあさま山荘事件が大きく関係していた!
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安藤百福は、チキンラーメンだけではなくカップヌードルも開発しています。
1966年、安藤百福はチキンラーメンを海外に進出させるために、米国やヨーロッパを視察しました。
その際に、米国のスーパーマーケットの担当者がチキンラーメンを折って紙コップに入れて、お湯を注いでフォークで食べたのです。
その様子を見て安藤百福は、カップ麺のアイデアを手に入れました。
1970年、日清食品はアメリカに現地法人を設立しました。
1971年、9月18日に世界初となるカップ麺「カップヌードル」を国内で発売しました。
しかし、協力的な問屋はなくて販売に苦戦しました。
1972年2月、世間にカップヌードルが広まるきっかけがありました。
それは、連合赤軍あさま山荘事件のテレビ中継でした。
その中継の中で厳しい寒さの中、カップヌードルを食べる機動隊員たちの姿が映し出されたのです。
この、湯気の上がっている食べ物は何なのか?視聴者からの問い合わせが殺到して、結果的に宣伝となり売り上げを急激に伸ばしました。
1973年、アメリカ合衆国で「Cup O’ Noodles」としてカップヌードルが発売されて、それ以降世界中にカップ麺を広げることとなりました。
カップヌードルは現在世界の80ヶ国で販売されていて、世界的なブランドになっています。
安藤百福が会長に就任!
1981年、社長を長男に譲って安藤百福は会長に就任しました。
1983年、社長が経営方針の違いから社長を退任したため、会長の安藤百福が社長を兼任することになりました。
1985年、今度は次男が社長に就任したため、安藤百福は再び会長専任となりましま。
この間には、インスタントラーメンの開発や食品業界への功績によって勲二等瑞宝章を受章したり、「財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団」を設立しました。
1987年、安藤百福は「麺ロード調査団」を結成して料理研究家らとともに、上海、南京、北京、広州など中国全土を巡って300種類を超える麺を食べました。
また、文化人類学者に世界各地の麺の歴史を研究させ、麺の系譜図を完成させました。
1966年、さらなる食文化の発展を願い個人資産を投じて「食創会」を発足させました。
そして、食創会から食品開発の研究者を表彰する「安藤百福記念賞」を制定し、大賞賞金が1,000万円で食品研究者対象では最高額となっています。
2012年には、「公益財団法人」に移行したため、「公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団」に名称を変更しました。
インスタントラーメン発明記念館がオープン!
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1999年、安藤百福の業績を記念して、「インスタントラーメン発明記念館」が池田市にオープンしました。
2001年、宇宙食ラーメン「Space Ram」の開発に着手しました。
2005年、「Space Ram」が宇宙食として認可を得て、アメリカ合衆国のスペースシャトル「ディスカバリー」に搭載されて、野口聡一宇宙飛行士が宇宙ステーションで食べて、宇宙で初めてラーメンが食べられました。
ちなみに、「Space Ram」はとんこつ味だそうです。
そしてこの年の6月29日に取締役を退任して、「創業者会長」に就任しました。
2006年、米タイム誌アジア版60周年記念特集にて、日本人のアジアの英雄13人の1人に選ばれました。
2007年1月5日、満96歳で急性心筋梗塞のため大阪府の病院で死去されました。
死去する3日前にはゴルフを楽しみ、前日には仕事始めで訓辞を行い、昼休みには社員たちとチキンラーメンに餅を入れて食べたそうです。
安藤百福は生涯現役で、波瀾万丈の人生を送りました。
安藤百福の経歴はいかがでしたでしょうか?
チキンラーメンを開発して大成功者と言われていますが、そこに至るまでにはとてつもない苦労がありました。
どん底に落ちても再び立ち上がるパワーなど、学ぶべき所がたくさんありますよね。
安藤百福の名言まとめ
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安藤百福が波瀾万丈の人生を送るなかで、その人生を送ったからこそ生まれた数々の名言があります。
本当にたくさんありますが、私の心に染みた名言を紹介します。
『目標を持ったら、あとは執念だ!』
目標を持つことはとても簡単なことで、誰にでも出来ます。
その後に出てくるさまざまな誘惑などに、負けない執念が必要になるということです。
『転んでもただでは起きるな!そこらへんの土でもつかんで来い!』
逆境に立たされたときに、人は思わぬ力を発揮すると言われています。
何かを得られるチャンスでもあるんですね。
『事業を始めるとき、金儲けをしようという気持ちはなかった。何か世の中を明るくする仕事はないかと、そればかり考えていた。』
どうしてもお金儲けを考えていたしまいますが、それだけでは成功出来ないんですね。
『即席めんの発想にたどり着くには48年間の人生が必要だった。過去の出来事の一つ一つが、現在の仕事に見えない糸で繋がっている。』
波瀾万丈の人生を乗り越えても、その人生が自分には必要だったと言えるなんて、すばらしいです!
『私は眠るときも、メモと鉛筆を枕元に用意する。あなた方も四六時中考える習慣をつけなさい。』
スマホが普及してから、考える習慣がめっきり減ってしまいました。
見習いたいです!
『5年間必死で働く意志と体力さえあったら、年齢に関係なく必ず成功できる。』
48歳でチキンラーメンを開発した安藤百福だからこと言える名言ですよね。
紹介した安藤百福の名言以外にも、まだまた名言はたくさんあります。
どの名言にも学ぶべきことがあふれています!
まとめ
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安藤百福の経歴や名言のまとめはいかがでしたでしょうか?
チキンラーメンやカップヌードルを開発して大ヒットさせましたが、そこには波瀾万丈の人生を送った経験もありました。
そこから生まれた明言もたくさんあります。
生涯現役、カッコいいです!
私もまだまだやれる!そんな気持ちにさせて頂きました。
安藤百福は、「食足世平」=「食が足りてこそ世界は平和になる」という言葉も生み出し日清食品の企業理念にもなりました。
これだけ波瀾万丈の人生を乗り越えながら、インスタントラーメンの開発が出来たのも妻や子供たちの支えがあったからこそですよね。
家族の絆も素晴らしいと思いました。
2018年後期のNHK朝の連続ドラマ小説のモデルが、安藤百福の妻がモデルになっています。
今回調べてみても、安藤百福の妻の情報はほとんどありませんでしたので、どんな姿が描かれるのかとても楽しみです!
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
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