昭和の10大事件がTVで特集されると、必ず紹介される事件が「浅間山荘事件」です。
大きな鉄球が山荘に向かってぶつかっていく映像を、見たことがあるかと思います。
日本で起こった人質立てこもり事件の中で最も長い10日間。拘束時間も日本最高記録です。
人質救出作戦はTV中継され、全国民が注目。高視聴率を獲得しました。
そして民間人1人と、機動隊2人の犠牲が出た悲しい事件でもあります。
何故、浅間山荘事件は起こったのでしょうか?
1972年に起こった浅間山荘事件の真相とその後である現在について、調べてみました。
『浅間山荘事件』の概要
(出典:http://www.bs-asahi.co.jp/documentary/prg_046.html)
「浅間山荘事件」とは、1972年2月19日から2月28日にかけて起こった「連合赤軍」が人質をとって立てこもった事件です。
人質拘束時間は、219時間で、日本で起こった人質立てこもり事件では2017年9月現在最高時間になっています。
人質を取ったものの、警察に何も要求しなかった連合赤軍。
警察は、犯人グループの家族に説得を頼むものの、事件は一向に解決しませんでした。
犯人グループは、管理人の奥さんの代わりに人質になりたいと申し出た民間人を至近距離から射殺しました。
2月25日からは放水・投石・擬音作戦で犯人グループを疲弊させるのです。
そして2月27日に鉄球を山荘にぶつけ、階段などを破壊しました。
2月28日に投稿勧告をしますが犯人が応じなかったことにより、機動隊が突入作戦を開始します。
機動隊との銃撃戦が行われますが、放水や催涙ガス弾が撃ち込まれ、バリケードも破られ機動隊が突入。
犯人グループは逮捕され、人質は無事に解放されました。
この模様は、NHKと民放各局で生中継されました。全局合わせての視聴率は、89.7%を記録しました。
今尚、昭和に起こった大事件として記憶に残る事件です。
浅間山荘事件が起こった状況をわかりやすく解説
1971年から1972年に結成・活動していた連合赤軍ですが、学生運動が弱体化して、弱くなった組織同士で結成されました。
元々思想が違う若者が集まったので内部分裂が始まっていました。
思想・考え方が違うものに「総括」という名の暴力を振っていた「山岳リンチ事件」が起こっていたのです。
同時に警察の包囲網が連合赤軍に迫っているという情報が流れ、連合赤軍のナンバーワン・ナンバーツーだった森恒夫と永田洋子が逮捕されました。
浅間山荘事件を起こしたメンバーは、1972年2月19日に銃を乱射しながら長野県警の包囲網を突破し、偶然通りかかった浅間山荘に立てこもります。
メンバーは連合赤軍のナンバースリーに位置する坂口弘。後に日本赤軍に入る坂東國男。永田洋子に認められた、吉野正邦。当時未成年だった加藤倫教・加藤元久兄弟の5人です。
加藤元久は、事件当時16歳でした。高校生1年生でもある年齢の男子が事件に関わっていたというのも衝撃です。
この時に山荘にいた管理人の奥さんを人質に取りました。
森恒夫と永田洋子の釈放と、自分たちの逃走を条件に人質にしたのです。
浅間山荘事件の容疑者の中でも、意見の食い違いがありました。人質を解放しようという者と、幹部の釈放を要求したい者。
最終的に犯人グループは「黙って抵抗していくことが、我々の主張となる」という決断をして、警察に何も要求しないという異常事態が続いたのです。
浅間山荘事件の人質救出作戦
(出典:http://book.asahi.com/reviews/column/2012020500005.html)
浅間山荘事件の10日間に及ぶ救出作戦をわかりやすく、ポイントごとにまとめてみました。
立てこもっている連合赤軍の家族が説得
人質解放を優先したかった警察。まずはメンバーの家族による説得作戦を行います。
特に吉野正邦の母親の説得はすごいものでした。
「お母さんを撃てますか?」という言葉に、吉野正邦は涙を流しながら発砲したのです。
浅間山荘事件の中心人物である坂口弘の母親や、坂東國男の母親も説得を行いましたが、犯人グループが投降することはありませんでした。
民間人の死
2月22日に最初の犠牲者が出ました。
新潟県から来た男性で「自分が人質の身代わりになる」と言って、山荘に近づいたのです。
しかし犯人グループは、不審に感じ至近距離で男性に発砲。病院に運ばれるものの、3月1日に死去しました。
この民間人については、名前や年齢、何故浅間山荘に来て人質の身代わりになろうとしたのか、全く明らかにされていません。
一部では薬物依存症だったため、公表できなかったのではとも言われています。
2月28日に鎮圧した浅間山荘事件
2月20日には、電気を止められた山荘。そして山荘に放水、擬音や投石が行われていました。再び家族による説得、また放水と繰り返されていきます。
これにより犯人グループは疲弊していったと言われていました。
2月28日に犯人グループに投降を勧告します。
しかし犯人グループが応じなかったため、機動隊が突入します。この時に、2名の犠牲者が出ました。
犯人グループと機動隊の銃撃戦は続きます。15時30分には放水と催涙ガス弾が撃ち込まれます。
17時にバリケードを少しずつ排除し、ベッドルームに穴があけられ機動隊が突入。
犯人5人が全員逮捕され、人質も解放されました。
鉄球作戦
「浅間山荘事件」といえば、山荘にぶつけられる鉄球のシーンが印象的です。
鉄球作戦は、突入前夜の27日に行われました。
浅間山荘の設計図が警察に持ち込まれ、綿密に計算された上で、鉄球作戦が行われました。
犯人グループがいる3階と人質がいる2階、建物の屋根に狙いを定めました。
結果、2階と3階をつなぐ階段を破壊し、壁の銃口も破壊することができました。
人質事件が長期化した理由
何故、浅間山荘事件の人質救出作戦は10日間かかってしまったのでしょうか?
①犯人を殺さず、生きて確保したい
②犯人の要求がなかったこと
③立てこもり側に有利な地形だった
④山荘に立てこもったため、十分な食料が確保できたこと
と、言われています。
この頃に起こった事件で警官が犯人を射殺したことに世間から非難が集まったため、生きて確保したかったそうです。
事件を起こした連合赤軍をわかりやすく解説
浅間山荘事件を引き起こした「連合赤軍」とは、どういう組織だったのでしょうか?
連合赤軍の結成
(出典:http://brief-comment.com/blog/organization/53209/)
学生運動が下火になってきた1971年に、日本で活動したテロ組織です。
数々の事件で幹部が逮捕・国外逃亡・死亡のため、弱体化した組織を立て直すために結成されました。
共産主義者同盟赤軍派・日本共産党・神奈川県委員会がメンバーに入りました。
ただ考え方や自分の思想の食い違いにより、度々衝突。
中央委員会委員長として、森恒夫をトップに立てます。その下に永田洋子、坂口弘で支えられました。
このことにより、森恒夫が独裁的な権限を持ったのです。
毛沢東主義を掲げていましたが、スターリンを支持するメンバーを死刑にするというのが森恒夫の考えでした。
ちなみに毛沢東は、スターリン養護派です。
浅間山荘事件で発覚した「山岳ベース事件」
「山岳ベース事件」は、浅間山荘事件で逮捕された犯人・吉野正邦によって明らかになった連合赤軍による集団リンチ事件です。
浅間山荘事件と山岳ベース事件は、連合赤軍事件の重大事件の2つになります。
「総括」と呼ばれる政治的反省会の時に、トップと意見が合わない者がメンバー全員から暴力を受け、食事も与えず極寒の外に縛り付けられ放置されました。
この事件で、仲間である12名が死亡しています。
犠牲者の中には、浅間山荘事件の犯人グループだった吉野正邦の妻や、加藤兄弟の長男も含まれていました。
浅間山荘事件のその後と現在
事件から2017年で、45年経つ浅間山荘事件です。
現在の事件関係者はどうなっているのでしょうか?
立場ごとに、わかりやすくまとめてみました。
浅間山荘事件の犯人グループのその後と現在
事件を起こした犯人グループが所属していた連合赤軍は、リーダーの森恒夫や永田洋子の逮捕。
その後に起こった浅間山荘事件によりナンバースリーなどの中心人物も逮捕されたことと、山岳ベース事件が明らかになったことにより、事実上崩壊しました。
浅間山荘事件の犯人グループの5人は、2017年現在全員生き残っています。
浅間山荘事件の中心人物だった坂口弘は、人質の身代わりになりたいと名乗り出た民間人を射殺しました。
機動隊に爆弾を投げつける、報道関係者を狙撃し重症を負わせるなどしました。
何度か再審請求を行ったものの、全て棄却され1993年に死刑が確定しています。
しかし2017年現在、刑執行は行われていません。
坂口弘の刑が執行されないのは、犯人グループの1人である「坂東國男」の存在があるからです。
坂東國男は、後に起こったマレーシアにあるクアラルンプールのスウェーデン・アメリカ大使館で日本赤軍の5人が人質52人を取り立てこもった事件で、超法規的措置で釈放され国外逃亡を果たします。
クアラルンプール事件の犯人グループの要求が服役・拘置中のメンバーの釈放で、その中に坂東國男の名前があったからです。
2017年現在、消息・生死不明でどこにいるかわかっていません。
坂東國男の消息を掴んで、裁判の時に坂口弘に証言をしてほしいため刑が執行されていないと言われています。
学生運動に参加し、脱走メンバーの処刑実行などで、永田洋子に認められていた吉野正邦。
逮捕後に、妻を亡くした山岳ベース事件を初めて警察に伝えた人物です。
主犯格ではないと判断され、無期懲役を受けました。
浅間山荘事件当時、未成年で少年A・少年Bと報道されていた加藤倫教・元久兄弟。
2人は1番上の兄を山岳ベース事件で亡くし、脱走を試みるも失敗していました。
浅間山荘事件には、たまたま坂口弘らと一緒にいたため犯人グループに入ったのです。
加藤倫教は、1983年に懲役13年が確定。
服役後は、実家がある愛知県に帰郷して農業をしています。
弟の元久は、事件当時16歳だったため、中等少年院へ行きました。
その後どうなったか記録がありませんが、おそらく実家の愛知県に帰ったのではないかと言われています。
浅間山荘事件に関わった人物のその後と現在
浅間山荘事件で人質になった管理人の妻・牟田泰子さん。
管理人だった夫と一緒に、年老いた泰子さんの両親の介護をするために浅間山荘の管理人になりました。
人質解放された後は、病院に入院しました。
事情聴取の際に「犯人は紳士的だった」と発言したと言われています。
人質に取った当初は、牟田泰子さんを縛って拘束していました。
しかしメンバーの中に山岳ベース事件のことが残っていたため、縛ることを止めました。
食事も与えられたことから、犯人グループは紳士的だったと発言しました。
しかしこれがマスコミの反感を買うのです。
「民間人1人と機動隊2人が亡くなっているのに、何を言っているのか」とマスコミに叩かれたため牟田泰子さんはマスコミ嫌いになったと言われています。
その後行われた、連合赤軍・犯人グループの裁判に証人として出廷することはありませんでした。
一切の取材も断ったため、現在は何処にいるかなどはわかっていません。
「犯人は紳士的だった」という発言は、実際に牟田泰子さんが発言したものではないとも言われています。
食事は1日1食で、連合赤軍のメンバーのふれあいが書かれていた報道を見て驚いた。そのためマスコミの前に姿を現さなくなったと言われています。
事件の舞台となった浅間山荘は、事件から10年程は観光名所になっていました。
その後、大半が壊されアートギャラリーになった後、現在は中国企業が所有しています。
警察関係者の中には、危機管理専門家としてTVにも出演している佐々淳行さん。
現在衆議院議員を務めている亀井静香さんは、警察庁警備局として事件に関わっていました。
そして浅間山荘事件・最後に亡くなった方がいます。
坂東國男の父親です。
息子が逮捕される前に、自宅で首を吊って自殺しました。
現在の浅間山荘は?
現在の浅間山荘の様子を映した動画がありますのでおいておきますね。
一般人が撮影したので、画質は今一ですが、今も何とも言い難い雰囲気を醸し出していますね。
浅間山荘事件のまとめ
昭和10大事件の一つである「浅間山荘事件」についてのまとめは、いかがだったでしょうか?
学生運動が下火になり、中心人物が次々といなくなる中で作られた「連合赤軍」が思想や考え方の違いにより崩壊していき、仲間を集団リンチするなど内部崩壊をしていきました。
警察の包囲網が敷かれたことにより、たまたま近くにあった浅間山荘に立てこもった5人の犯人グループですが、その中には16歳の未成年もいました。
民間人1人・機動隊2人の犠牲がありました。
至近距離で銃撃され亡くなる、銃撃戦の末に亡くなる。
非常な攻防戦が警察と連合赤軍の若者によって、行われました。
このような惨劇が繰り返されないことを祈るばかりです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。