1997年11月、日本の証券業界で四大証券会社の一つとされていた「山一證券」が破綻しました。

当時は「銀行と証券会社は潰れない!」と言われていた時代だったため、山一證券が破綻したことは、世間に強い衝撃を与えました。

山一證券が破綻したことによって、日本の経済に与えた影響はとても大きく、連日報道されました。

涙ながらに「社員は悪くありません!」と頭を下げる社長の姿はとても有名で、過去の映像などで見たことがあるかもしれませんね。

山一證券が破綻して、もう20年になります。

なぜ、絶対に潰れないとまで言われていた山一證券が破綻したのでしょうか。

その理由を振り返り、社長のその後についても調べてみました。

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山一證券とは

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山一證券は1897年に創業し、野村證券、大和證券、日興証券と並んで日本の四大証券会社の一つでした。

また、戦後の一時期は日本最大の業績を誇る証券会社でもありました。

1965年以降に四大証券会社の中で第4位にはなりましたが、法人関連の業務に強かったため「法人の山一」と称されることもありました。

高度経済成長からバブル経済の影響を受けて、証券会社は1970年代~1980年代半ばまでの間、空前の好景気になっていました。

当時は、株の取引をインターネットで行う仕組みはなく証券会社を通して株の売買を行っていたため、現在の証券会社とは全く違います。

山一證券は大口の法人顧客を多く抱えて売り上げを伸ばしていきました。

しかし、1997年11月24日に不正会計事件後の経営破綻によって、自主廃業に追い込まれましたが、法人としての山一證券株式会社は解散する2005年まで存続していました。

ちなみに、現在ある山一證券株式会社は商標権を取得した元社員が再興したものであるため、法人としての連続性はありません。

山一證券が破綻した理由は?

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山一證券が破綻するまでの流れをまとめ破綻した理由について迫ってみたいと思います。

山一證券は当時、四大証券の1つでしたが売り上げを伸ばすために無理をしていたことが大きな理由となっています。

証券会社の売り上げを伸ばすために重要とされていたものが、法人の顧客から支払われる営業特金でした。

営業特金は、証券会社が顧客から預かる運用資金のことで、山一證券は法人顧客を多く抱えていたため、営業特金の契約を取ることが会社には必要不可欠なことでした。

そのため、通称「ニギリ」と呼ばれる利回りを保証する行為が頻繁に行われるようになりました。

しかも、契約を取るために他社よりも有利な利回りを保証しました。

営業特金によって、短期間に多くの手数料収入をもたらしました。

利回りを保証するということは、運用が失敗したら損失の補てんをしなければなりませんが、株価が右肩上がりで上がれば問題はありませんでした。

また、ニギリは違法行為でしたが実際にはどこの証券会社でも行われていたことで、当時は損失の補てんや一任勘定取引も違法ではありませんでした。

山一證券は1兆8千億円の営業特金を集めて、1990年の決算では過去最高の2千336億円の経常利益を記録しました。

しかし、バブルが崩壊したことによって、営業特金は1千300億円の含み損に変わってしまいました。

含み損とは、価格の下落によって生じる会計帳簿には現れない損失のことです。

それに加えて、大口優遇の損失の補てんが社会問題となり、1990年に大蔵省が特金の禁止を通達しました。

山一證券は追い詰められて、含み損を全部かぶれば四大証券から転落してつぶれてしまうことも考え、違法でも顧客との約束を守るか、大蔵省に従って顧客に泣いてもらうか悩みました。

そこで取った方法が「うるさい企業に補てんはするが、そうでなければ先送りをして相場の回復を待つ」というものでした。

この時の問題を先送りにするために使用したトリックが通称「飛ばし」と呼ばれるものでした。

飛ばしとは、含み損が生じた資産を市場価格より高値で第三者に転売することで、損失を隠すことです。

決算期が近づいた企業の営業特金の含み損を表面化させないために、飛ばしをして一時的に別の会社に売却し、決算期が過ぎたら買い戻すということです。

さらには、企業がニギリ分の利息を保証し他の会社にひきとってもらう、通称「ニギリ飛ばし」も行われていました。

しかし、ニギリ飛ばしは株価が回復して含み損がなくならなければ、永遠に飛ばし続けることになってしまい、山一證券内部では「宇宙遊泳」と呼んでいたそうです。

1991年、国会で損失補てんの問題が取り上げられ顧客は次々に営業特金の引き上げを要求しました。

ニギリ飛ばしの利息は安いものではなく、飛ばし先も限られて機転しまいました。

そこで、山一證券は海外にペーパーカンパニーを作ってそこに損失を移し、帳簿上では損失を隠しました。

この損失隠しにより、山一證券は完全な粉飾決算となりました。

1994年になると、帳簿外の損失を除いても山一證券は再び危機に陥り、他の三大証券に大きく差をつけられ、2期連続で赤字になりました。

そんな中でも大量の採用を続けたため、オフィスの不動産も拡大していきました。

大蔵省からは経営改善報告書の提出を求められ、内部から海外の債務を一括処理して一から出直さないかとの意見も出たが、最終的には帳簿外の債務は隠して、表向きな改善報告書が提出されました。

1997年、ついに損失が表面化して、3ヶ月前に社長を引き継いだ野澤社長がマスコミの前で会見し、涙を流しながら「社員は悪くありません!!!悪いのは全部経営陣です!!!」と言い、TVなどで繰り返し放送され大きな話題となりました。


山一證券の破綻理由は、不況によっての法人の弱体化や、それによっての株の損失が引き金となって自主廃業に追い込まれたものでした。

簿外債務は、一般社員や取締役の一部の者さえしらなかったとされています。

一部の社員が、会社としてのコーポレート・ガバナンスを無視して、重要な事項を専断していたことも浮き彫りになりました。

山一證券社長就任後3ヶ月での自主廃業記者会見

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山一證券が破綻したことによって、「社員は悪くありません!!!悪いのは全部経営陣です!!!」と大企業の社長が絶叫する姿は、今でも語り継がれるほど有名なものになっています。

この会見には、「倒産の時でさえ社員のことを思ってるなんて、すばらしい社長だ!」や、「記者会見で社長がここまでの姿を見せるのは恥ずかしい!」など賛否両論ありました。

この会見により、野澤社長がとても有名ですが、なんと破綻から3ヶ月前に社長に就任されたばかりでした。

そのため、野澤社長に破綻になってしまった理由は直接は関係ないのです。

しかも、社長就任当時に約2600億円の簿外債務があることすら知らされていなかったのだとか…。

野澤社長は、簿外債務が発覚した次の日にプロジェクトチームを発足させて、会社更生法の適用や、規模の縮小、外資との提携など様々な方向から会社を存続させる方法を考えました。

しかし、野澤社長は社長業務や危機対応の経験がなく、あまりにも自身の能力を超えた挑戦でした。

最終的には、全ての道が塞がれた形での自主廃業という状況になってしまいました。

野澤社長は営業上がりで、何も分からない社長業をこなそうと持ってる力を全て出して必死に対応しました。

涙の会見の時も、ほとんど寝ていない状態での会見だったそうです。

理由が違うので比べるのはおかしいかもしれませんが、雪印乳業の食中毒事件や牛肉偽装事件などではマスコミの質問に対して「寝てないんだよ!」と逆ギレした社長もいました。

他には、自分には責任がないような発言をした社長もいます。

そんな、責任感がない大企業の社長もいるなかで、野澤社長は「自分達が悪い!」とはっきりと記者会見で発言しました。

就任約3ヶ月の社長でしたが、山一證券OBの人たちからは信頼度が高く愛された社長だったとのことです。

自分自身が後ろ指をさされても、社員を守ろうとする誠実な気持ちが伝わったのでしょうね。

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社長のその後は?

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野澤社長のその後も気になりますよね。

野澤社長は山一證券の自主廃業宣告後に、支店長時代のつてで子会社の会長に就任したり、大企業のIT系顧問に就任したりしました。

色々な経験をしたのち、センチュリー証券の社長にも就任し、証券業界に戻ることになりました。

これは、野澤社長の人柄や営業マン時代に付けた力が大きかったのだと思います。

努力は裏切らないということでしょうか。

まとめ

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山一證券が破綻した理由や、社長のその後についてのまとめはいかがでしたでしょうか?

難しい言葉が多いですが、なるべく分かりやすくまとめたつもりです。

山一證券が破綻した時の社長は、わずか就任3ヶ月の野澤社長でした。

全ての責任を負った記者会見は賛否両論ありますが、個人的にはあの記者会見は素晴らしかったと思うので、社長のその後が転落人生ではなくて本当に良かったと思いました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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