みなさんは、1996年12月17日に発生した『在ペルー日本大使公邸占拠事件』をご存知でしょうか。
この事件は、事件発生直後には600人以上もの人質をとられ事件の解決までに、4ヶ月以上もかかった前代未聞の人質事件です。
なぜ、事件解決までに4ヶ月以上もの時間がかかってしまったのでしょうか。
そして、人質の人数が多かったため、被害者も多数出てしまったのでしょうか。
真相が気になります!
そこで今回は、在ペルー日本大使公邸占拠事件について振り返り、被害者についてや事件の真相にも迫ってみました!
在ペルー日本大使公邸占拠事件の概要
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1996年12月17日、ペルーの首都リマにある在ペルー日本大使公邸では在外公館の最高行事となる天皇誕生日祝賀レセプションが行われていました。
そのレセプションの最中に、覆面姿の左翼ゲリラのトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバー14人が侵入し、ペルー政府要人や日本人駐在員ら600人以上を人質しました。
そして、MRTAは人質を解放する条件として…
①獄中の仲間全員の釈放
②国外に退避するまでの人質の同行
③アルベルト・フジモリ政権による経済政策の全面転換
④身代金の支払い
これら4つの条件を要求し、この他にも公邸の敷地内に対人地雷を設置するなどし、軍や警察による武力解放作戦に備えていました。
MRTAは特に、幹部であるビクトル・ポライの身柄を必要としていたようです。
MRTAは600人以上を人質にしたものの、あまりに人質が多すぎたため女性や老人の人質たちは順次解放していきました。
その中には、フジモリ大統領のお母様もいらっしゃったそうです。
確かに、MRTA14人のメンバーだけでは600人以上の人質は目が届かないですよね!
順次人質は解放されましたがその後の犯人との交渉は決裂し、ペルー政府高官や青木盛久大使ら日本人大使館、日本企業駐在員ら72人は最後まで残されました。
事件が発生してから127日後の1997年4月22日、特殊部隊140人が公邸に突入しチャビン・デ・ワンタル作戦を実行しました。
それにより銃撃戦となりMRTAのメンバー14人全員が死亡し、残されていた人質72人のうちの1人が死亡し特殊部隊隊員2名も犠牲となりました。
事件の発生を受けて、外務省や警察庁から応援部隊数名や多くの報道陣たちがリマに向かい、日本のテレビ放送はこの事件の報道一色になりました。
現在、ペルーの日本大使公邸は移転しています。
事件発生後から人質救出までの経緯
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事件発生後から多数の人質を救出するまでの経緯をまとめてみました!
武力突入計画
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事件発生の翌日、ペルーのフジモリ大統領とモンテシノス国家情報局顧問は武力突入をすでに検討していました。
しかし、事件発生直後に当時の日本の首相だった橋本龍太郎の命令を受けてペルー入りした、外務大臣の池田行彦が「平和的解決」を勧めたため、即時の武力突入は断念されました。
1997年1月下旬、事件が膠着状態に陥ったことで国内外の批判が高まり、内政の不安定を嫌ったフジモリ大統領の意思を受けて、ペルー警察当局は武力突入の計画を始めました。
そして、ペルー警察当局は大使公邸と同じ間取りのセットを造って特殊部隊が突入する訓練を重ねていました。
また、本当に派遣されるか現実的ではありませんでしたが、SATも大使公邸の間取りを一部再現して突入の訓練を実施していました。
突入前に同じ間取りのセットを造って訓練するとは驚きました!
あらゆる状況に対応するには、ここまでやらなければならないのですね~!
トンネル掘削開始
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1997年2月1日、橋本首相とフジモリ大統領がカナダのトロントで事件発生後初めて会談を行いました。
そこで橋本首相は改めて、平和的解決と事件解決への全面的支援を訴えました。
そして、フジモリ大統領も橋本首相の訴えに一定の理解を示しました。
しかし、実際には1月7日にペルー警察当局がフジモリ大統領の発案により、公邸周辺の家屋から公邸地下までのトンネル掘削を合計7本も開始していたのです。
また、トンネル掘削は騒音で気がつかれる心配がありますが、大音量で軍歌を流し続けるなどのカモフラージュをしていました。
しかし、トンネル掘削はメディアによりスクープされ犯人側にも知られてることに!
なんということでしょうか…。
これで作戦は失敗かと思われましたが、MRTAはこのトンネルを人質たちが脱出するためのトンネルだと考えたため、人質たちを2階に集結させるようになりました。
しかし、このMRTAのとった行動が実は突入作戦を成功させるには好都合だったのです!
直接交渉開始・キューバ亡命案検討
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1997年2月11日、ペルー政府とMRTAの間で直接交渉が開始されました。
その交渉には、ペルー政府代表のドミンゴ・パレルモ教育相や、保証人委員会の委員としてミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表やファン・ルイス・シプリアーニ大司教、寺田輝介駐メキシコ日本特命全権大使などが参加しました。
なお、保証人委員会の委員として参加したシプリアーニ大司教ですが、犯人と政府の交渉役の他にも人質への医薬品や食料の差し入れなどをして活躍しましたが、密かに人質となった者に対して無線機を手渡したり、差し入れた物の中に盗聴器が仕込まれていたことも明らかになりました。
この直接交渉と同時期に、ペルー国内の刑務所に服役中の2人を含むMRTA構成員全員のキューバ亡命案も検討されました。
この平和的解決案の可能性を判断するために、フジモリ大統領はキューバのフィデル・カストロ首相と会談し、キューバ側は条件付きで受け入れる姿勢を見せました。
しかし、この平和的解決案はMRTAメンバーに却下され幻の解決案となりました。
チャビン・デ・ワンタル作戦実行
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事件発生から127日が経過した4月22日、ペルー海軍の特殊作戦部隊を中心とした軍と警察の特殊部隊が公邸に突入し、最後まで拘束されていた72人の人質のうち71人を救出しました!
72人の人質のうち、日本人の人質は24人でした。
事件直後の人質は600人以上だったのですが、次々と解放され1997年の始めには100人程度になり、最終的には72人になっていました。
なお、女性は先に解放されたため最終的な人質は男性のみでした。
この救出作戦は、密かに掘削を進めていた公邸の地下トンネルを利用したもので、作戦名のチャビン・デ・ワンタルも古代の大規模な地下通路で有名な世界遺産に由来しています。
この作戦を実行するにあたり、平和的解決を望んでいた橋本首相には事前通告はなかったとされています。
なぜ4月22日に作戦が実行されたかと言うと、この日の午後にMRTAメンバーの日課となっていたサッカーが始まり、1人を除くMRTAメンバー全員が1階にいることが密かに持ち込まれた無線機からの連絡により判明したからです。
この連絡により突入作戦の実行が決定されたのです!
こんな真相があったんですね~!
そして、突入作戦の連絡を受けたピエトリ中将たちは2階にいた人質たちを急いで奥の部屋へと誘導しました。
15時23分、 いよいよ突入作戦がスタートしました。
まず、掘削をしていたトンネルの終着地となる1階の床の数ヶ所が爆破されました。
爆発の爆風の向きを指定できる特殊な爆弾を使用して、犯人を爆死される計画だったのです。
そして、爆破して出来た穴と正門から特殊部隊が突入しました。
2階にいた日本人の人質たちは突入があることは知らされていなかったのですが、部屋に留まっているように言われていました。
作戦は成功し、人質のほとんどは無傷で解放されました。
しかし、被害者もいて脱出するときに落下したり、銃弾を受けてしまったフランシスコ・トゥデラ外務大臣や青木大使などの複数の被害者が出てしまいました。
また、人質のカルロス・ジュスティ最高裁判事が2階から飛び降りのちに死亡し、ファン・バレル中佐は人質を守ろうとして殉職、ラウル・ヒメネス中尉はMRTAの銃撃で死亡しました。
この事件により命の犠牲となってしまった被害者はこの3名でした。
そして、MRTAメンバー14人は全員爆死または射殺されました。
事件後
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犠牲になった特殊部隊隊員2名のもとには、日本人からもの義損金が寄せられました。
そして、脱出時に怪我を負って車椅子を使用することになった青木大使は事件直後は葬儀に行けませんでしたが、特殊部隊隊員2名とカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前まで向かい冥福を祈りました。
事件後にペルーを訪れる日本の国務大臣は必ず墓前を訪れています。
ペルー日本大使公邸は、同じ地区にある別の場所に移転しました。
上の画像の建物が現在のペルー日本大使公邸ですが、新しくなった日本大使公邸はセキュリティーが大幅に強化され、事件当時のような大規模なパーティやレセプションなどはほとんど行われなくなりました。
事件が発生した旧日本大使公邸は取り壊されて空き地となっていましたが、2011年に地元の不動産業者へ売却されています。
フジモリ大統領の事件解決への決断に対しては、日本を含めた世界各国から大きな賞賛が贈られました。
しかし後日、降参したMRTAメンバーを射殺した疑惑が発覚し、フジモリ大統領も訴追されてしまいました。
MRTAは事件によりペルー国内だけでなく世界各国から非難を受け、国内外からの支援も途絶え事実上の活動停止となりました。
2007年4月21日、禁固32年の刑で服役していたMRTA幹部のビクトル・ポライは事件の武力解決10周年を期にして、共同通信へ書簡を寄せ自らの武力革命路線の敗北を認めた上で、武闘路線の放棄を表明しました。
事件発生による意外な特需!?
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在ペルー日本大使公邸占拠事件は4ヶ月以上にも及ぶ前代未聞の人質事件でしたが、その間人質たちはどやって過ごしていたのでしょうか。
気になり調べてみると、人質たちは暇を潰しお互いのコミュニケーションを取るためにも、日本語とスペイン語の相互レッスンをしたり、トランプやオセロ、麻雀などのゲームも行っていたそうです。
また、4ヶ月の間に人質たちとコミュニケーションを取るようになったMRTAメンバーも仲間に入ることもしばしばあったとか。
食事面はリマ市内の日本料理レストランから毎日、料理が届けられペルー人の人質やMRTAメンバーにも振る舞われていたようです。
そして、多くの日本の報道陣たちがリマに詰めかけリマ市内の日本料理レストランから大量の出前を注文していたため、事件当時は多くの日本料理レストランが「特需」と言われるほどの利益を出したと言われていました。
しかし、実際に当時リマ市内の日本料理レストランで働いていた方の話によると、食中毒対策として煮物には水を使用せずに煮切りみりんを使用したり、弁当の容器も輸入品をわざわざ購入していたそうなんです。
さらに、事件現場へ届ける弁当を作るために手間がかかり、その分通常のお客さんが減ってしまったとのこと。
そのため真相は、もうかったわけがないということでした。
人質を助けられたのは、裏で多くの人たちの協力があったからこそだということを忘れてはなりませんね。
まとめ
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在ペルー日本大使公邸占拠事件についての真相や被害者についてまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。
600人以上の人質がとられ、解決までに4ヶ月以上もの時間がかかった前代未聞の事件でしたが、命の犠牲となってしまった被害者は3名でした。
地下にトンネルを掘削するという大胆な作戦でしたが、作戦は成功し人質のほとんどは無傷で解放されたとは凄いですよね~!
在ペルー日本大使公邸占拠事件の解決をきっかてとして、ペルーでは左翼ゲリラがほぼ壊滅し国内の経済は安定しているようです。
しかし、その反面として経済成長によって生じた貧富の差は大きく、窃盗や強盗などの犯罪は後を絶たないようです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!