みなさんはチェルノブイリ原発事故をご存知でしょうか。
事故発生当初に大規模な被害を与えたことはもちろんですが、事故から30年以上経過した現在でも放射性物質がチェルノブイリの周辺に残り続けており、多くの住民の生活に大きな影響を与えています。
そして、2011年3月11日に発生した東日本大震災から8年になりますが、福島第一原発事故が発生したこともあり過去の事例として、チェルノブイリ原発事故との比較から再び注目が集められています。
福島第一原発事故と同様にチェルノブイリ原発事故は史上最悪のレベル7の原発事故とされています。
東日本大震災から8年が経過した今、チェルノブイリ原発事故についても振り返ってみたいと思います。
そこで今回は、チェルノブイリ原発事故の経緯や原因、被害、現在の様子などをまとめてみました!
チェルノブイリ原発事故とは
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チェルノブイリ原発事故とは、1986年4月26日に旧ソ連のウクライナキエフ州北部、プリピャチ市のチェルノブイリ原子力発電所で発生した原子炉の爆発および火災事故のことです。
国際原子力機関が策定した国際原子力事象評価尺度(INES)では最も深刻なレベル7に分類されており、2011年3月11に日本で発生した福島原発事故と並び史上最悪の原発事故とされています。
事故の経緯
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チェルノブイリ原子力発電所は、旧ソ連が原爆用のプルトニウムを作るために開発した原子炉を発電用に大型化したものであり、ロシア語で「大出力チャンネル型原子炉」という言葉の頭文字をとってRBMK原発と呼ばれています。
1986年4月にはソ連に5カ所の原子力発電所があり、15基のRBMK原発が運転していました。
そして、チェルノブイリ原子力発電所では4基が運転しており、5号機と6号機が建設中でした。
原発事故を起こしたのは4号機で1983年12月に運転を開始したものであり、当時は最新のRBMK原発でした。
原発事故前日の1986年4月25日未明、4号機は保守点検をするために運転を開始してから始めての停止作業に入りました。
その運転停止に合わせ、タービンの慣性回転を利用するための非常用電源のテストが予定されていました。
午後になると出力が定格の半分になりましたが、電力司令所から運転継続の要請があったため50%の出力での運転を継続しました。
午後11時には出力降下作業を再開し、4月26日午前0時に運転班が交代しました。
午前0時半には新しい運転班が出力コントロールに失敗したため、出力が0%になってしまいました。
ここでもし、非常用電源のテストをあきらめていたとしたら原発事故は発生しなかったと言われています。
しかし、運転班は停止直後の原子炉から制御棒のほとんどを引き抜いて出力の再上昇を試みました。
午前1時23分、熱出力が20万kWでなんとか安定したためタービンの蒸気バルブを閉鎖して非常用電源のテストが始まりました。
それから40秒後、非常用電源のテストが終了したため運転班が原子炉を停止するために制御棒一斉挿入ボタンを押しました。
その3秒後、出力高と出力上昇率高の警報がなり、その数秒後に強い衝撃と2回の爆発がありました。
外部の目撃者によると花火のような火柱が上がったそうです。
原発事故発生後の対応
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チェルノブイリ原発事故が発生した1986年4月26日の昼頃、原子力発電所があるプリピャチ市民は事故のことを知っていましたが、避難指示はなくいつも通りの生活を続けていました。
プリピャチ市民のほとんどは原子力発電所の関係者です。
翌日の27日になるとプリピャチ市内の放射線量が上がり始めるとよくやく避難勧告が出されバス1,200台を利用して45,000人が避難しました。
後日の報告によると4月26日午前9時のプリピャチ市内の放射線量は1.4〜14Sv/時で、通常の1000倍から1万倍以上の数値をすでに観測していたそうです。
しかし、プリピャチ市以外にはしばらく何も知らされることがなく30km圏内の116,000人の住民が強制避難を始めたのは、原発事故が発生してから1週間後の5月2日でした。
原発事故発生直後にソ連が事態の隠蔽を図ったため、対策が後手に回ってしまったのです。
その結果として、周辺の住民の避難が遅れ多くの人々が被ばくをすることになってしまいました。
そしてなんと、避難者たちは30年以上が経過した現在もまだ公的には戻ることができていないのです。
石棺の建設
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チェルノブイリ原発事故発生後には高レベルの放射性物質の影響を受けてロボットの使用が困難となったため、多くの兵士や労働者が事態収拾のために動員され放射性物質の拡散を防止するために事故発生の4号炉を覆うための「石棺」が建造されました。
1986年6月にコンクリート製の石棺の建造が開始されると1986年11月に完成し、放射性物質を封じ込めるために効果があったとされています。
しかし、石棺の耐用年数は30年ほどしかなくあくまでも応急措置だったため、事故発生からすでに30年以上が経過し石棺の崩壊が懸念されていました。
さらに、石棺は放射性物質を封じ込めただけで内部の核燃料や汚染物質はそのままだったため、隙間から入り込んだ雨水の汚染による周囲の土壌はの放射能汚染も問題で新たな対策が必要でした。
2000年12月15日、原発事故後から唯一稼動していた3号炉を停止したことにより、チェルノブイリ原子力発電所は完全閉鎖となりした。
シェルターの設置
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新しい対策として石棺をさらに巨大な建造物で覆うシェルターの設置が計画され、2012年に建設が開始し2017年に完全に密閉され完成しています。
新しいシェルターは高さ約110メートル、幅約260メートル、長さ約160メートルのアーチ型で石棺の近くで組み立てられて、油圧ジャッキを使用し滑らせる形で所定の位置に設置されました。
建設費はさまざまな国や機関からの援助でまかなわれました。
この新しいシェルターは、100年間放射性物質の放出を防ぐとされており、最終的な目標は事故炉を安全に解体することです。
チェルノブイリ原発事故の被害拡大の原因
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チェルノブイリ原子力発電所は電気を作るために開発されましたが、事故が起こるまでは順調に運営が続けられていました。
チェルノブイリ原発事故の原因は1つではなくさまざまなものがあると言われていますが、その中の主な原因を2つまとめてみました。
①原子炉設備が不十分だったため
チェルノブイリ原発事故による被害がこれほどまでに拡大してしまった大きな原因として、万が一事故などが発生し放射性物質が漏れ出してしまった時に外部への有害物質の放出を防ぐための安全装置が無かったことがあげられます。
安全装置がないということは、放射性物質が原子炉の外部にそのまま出て行ってしまうため、周辺が高濃度の放射性物質で一気に汚染されてしまうことになります。
さらに、原子炉を自動停止させる仕組みはありましたが、それを簡単に解除できる仕組みとなっており十分な設備ではありませんでした。
チェルノブイリ原発事故では被害の拡大を止めることができず、現在もチェルノブイリ周辺は汚染されたままの状態となっています。
②運転員による人的ミス
事故発生の当初、事故の原因は運転員による人的ミスだとされていました。
チェルノブイリ原子力発電所内では決められた通りに装置を操作しなかったり、専門家でなくても運転の指示を行うなど考えられないような規約違反があったためです。
しかし1991年の報告書によって、チェルノブイリ原子力発電所では運転員に十分な核に関する教育を最初からしていかなったことが明らかになりました。
この原発事故の教訓から、核に関わる人たちが正しい知識を持つことの大切さを改めて考えそれが広く認識されるようになりました。
チェルノブイリ原発事故による被害
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チェルノブイリ原発事故によりチェルノブイリ原子力発電所の周囲は高濃度の放射性物質で汚染され、特に半径10kmの地域では汚染がひどく周辺の松が枯死してしまいました。
これらの枯死した松が赤茶色に見えたため、原子力発電所の周辺の森は「赤い森」と呼ばれています。
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枯死した松はソ連政府が汚染除去作業として伐採し、表土も合わせて地中の深くに埋められています。
被災者数
チェルノブイリ原発事故では発生当日に作業者2人が死亡したほかに、3ヶ月以内に8人が死亡しました。
チェルノブイリ原発事故は過去の原発事故の中で史上最悪の人的被害をもたらしたと言われていますが、被災者数は諸説あるため正確な数字が明らかになっていません。
そのため正確な数字ではありませんが、原発事故による被災者を調べてみると…。
・事故現場に居合わせた職員や消防士の人たちは1000人~2000人
・事故の後始末や汚染除去作業に従事した人たちは60万人~80万人
・事故直後に周辺30km圏内から強制避難した住民たちは13万5,000人
・事故の数年後に高汚染地から移住した住民たちは数10万人
・汚染地域に居住している住民は600万人以上
との情報がありました。
1986年のソ連の報告では、事故直後に避難した人たちには急性の放射線障害は皆無であったと述べていますが、ソ連崩壊後の1992年には子どもを含めた多数の急性放射線障害の報告があったと記す秘密文書が発覚しています。
事故後数年経過してから死亡した人たちの死亡原因は様々で被ばくとは関連が薄いとされていますが、皮膚障害や白内障は被ばくの影響だとされています。
また、避難した人たちの中で原発事故当時に小児から青年だった人の中から6,000人以上の甲状腺がんの発症が見られ、2005年までの間に15人が死亡しています。
これは、事故後の対応の遅れによりヨウ素131に汚染された牛乳を摂取したことが主な原因とされています。
また、チェルノブイリ原子力発電所の半径30km以内は現在も居住が禁止されています。
世界中に各地におよぶ被害
チェルノブイリ原発事故で被害を受けたのは原子力にの周辺だけでなく、事故により放出された放射性物質は北半球全域にまで拡散し、世界各地に被害をもたらしました。
これらを含めると、チェルノブイリ原発事故による被災者は最大で数百万人におよび、間接的な被災者も数万人に達すると言われています。
放射性物質による被害は時間の経過と共に現れるものもあり、長期にわたり国際的な医療や救援活動が必要とされます。
チェルノブイリの現在の状況
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チェルノブイリ原子力発電所の周辺一体が汚染されてしまった原発事故でしたが、事故発生後13年間も稼働され被害拡大への対策が万全ではない状況が続きました。
現在でも近隣の村には住民はおらず、人が住んでいた住居などの建物のほとんどは動物が占拠している状況です。
なかには自らの意思で放射性物質に汚染された故郷に暮らす住民もいますが、その人数は100人前後だそうです。
先ほど説明した「赤い森」ですが、現在は退避区域が生物多様性の聖域化としたと言われるほど、再び樹木が成長し多くの野性動物が暮らしています。
また、汚染が深刻な地域には奇形の動植物が確認され、突然変異した動物や通常よりも大きく成長した植物などが確認されています。
しかし、赤い森の周辺に生息する動物は増加しているものの、外部から流入してきた動物でありこの地域の出生率は低下しているとの研究結果もあります。
チェルノブイリ原子力発電所周辺の自然環境が原発事故により大きく変化したことには間違いありませんね。
まとめ
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チェルノブイリ原発事故についてのまとめはいかがでしたでしょうか。
事故から30年以上経過したにも関わらずいまだに大きな爪痕を残している原発事故であり、チェルノブイリ原子力発電所の半径30km以内は現在も居住が禁止されています。
チェルノブイリ原発事故は原子力発電の危険性を認識させた事故でもあり、脱原発の流れにも大きな影響を与えました。
放射線の影響は後になって分かるものも多いので、今後もさらに被害が明らかになっていくかもしれませんね。
放射性物質の残るチェルノブイリ周辺が元の町に戻るのは途方もなく先になりそうです。
核に関わる人たちが正しい知識を持つことの大切さを改めて考えさせられた原発事故でした。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!