私事ですが、実家の両親が子供の頃に伊勢湾台風を経験しているので台風シーズンになると「あの時の台風は本当に大変だった・・・」と体験談をよく聞かされていました。
伊勢湾台風を実際に経験しているからこそ、その後の人生で台風に対する備えや考え方も随分違ってきているのだと思います。
子供時代に「夜通しひざまで水に浸かりながら家族全員で家の戸や窓を押さえていた」経験は壮絶なものだったと思われます。
一夜が明けて変わり果てた景色を見た時のことは一生忘れられないと話していました。
ここでは、自然災害の中では戦後最大規模の被害が出たと言われている伊勢湾台風について詳しく見ていきたいと
思います。
「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉を忘れずに、防災対策は日ごろから万全にしておきましょう。
伊勢湾台風とは
出典:http://hiroba.jmc.or.jp/archives/50855944.html
台風による死者、行方不明者の数は過去最大規模である伊勢湾台風。ここではその伊勢湾台風について振り返ってみたいと思います。
昭和34年9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴いました。
最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなくそのまま北上し、台風発生から5日目の26日夕方6時頃に和歌山県潮岬の西あたりに上陸しました。
上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出て10月2日にようやく消滅しました。
この台風は勢力が非常に強く暴風域も広かったため、広い範囲で長時間強風が吹き荒れました。
愛知県の伊良湖岬では最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋市で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測しました。
伊勢湾台風の被害の概要
出典:http://network2010.org/article/467
高潮が堤防を決壊し、全国で5098人(死者4697人・行方不明者401人)もの犠牲者が出ました。負傷者は全国で38921人と言われています。家屋の倒壊や浸水も何万棟にも及びました。
戦後に発生した自然災害の中で、最大の被害規模です。
強風による吹き寄せと低気圧による吸い上げ効果によって起こった高潮は、名古屋港において、観測史上最高となる5.31m(名古屋港基準面)の潮位を記録しました。ちょうど満潮の時刻と台風の影響の時間が重なったこともあり、海は大しけでした。
そしてうねりを伴った高潮が暴風と共に堤防をはるかに越えて住宅地に一気に押し寄せたのです。もともと遠浅の海だった場所を江戸時代に干拓した土地であった点も災いしました。
人々は逃げる間もなく家屋ごと一気に水に流されてしまったのです。
流木なども流れ着き、家屋に突き刺さったりしました。
このように台風が上陸したのは和歌山県ですが、三重県や愛知県などの伊勢湾沿岸での被害が特に大きかったので「伊勢湾台風」と名付けられました。
岐阜県や愛知県などの海抜0メートル地帯では、台風が去ってからもなかなか水が引かず、半年近くも浸水し続けた地区もあったということです。水が引くまでの間は移動のためにボートを使っていたそうです。避難所なども機能していなかったので、当時の被災者たちは本当に過酷な生活を余儀なくされていたことが推測されます。
そして当時は汲み取り式の便所が一般的だったため、汚水も浸水の影響で流れ出し、辺り一帯の衛生環境は著しく悪くなりました。感染症も多く発生したと記録されています。
伊勢湾台風被害拡大の原因は?
出典:https://takushoku-alumni.jp/20140528_7821
伊勢湾台風は事前に進路予想もされ、上陸することもほぼ確実と言われていました。十分備える時間もあったにも関わらず、なぜこれほどの被害者が出てしまったのでしょうか?
台風自体の勢力が強かったことはもちろんですが、これほどにまで被害が拡大したのにはいくつかの原因があったのです。
当時は行政も台風に対する考え方がまだまだ甘かったのが最大の原因です。避難場所の選定や、食料や水などの備蓄もほとんどなく、住民に避難を呼びかける体制もありませんでした。
停電したことで情報源であるラジオやテレビなどが使えなくなってしまった点も挙げられます。住民は暴風雨がだんだん強くなっていく中、どうしたらいいのかも分からないまま不安な時間を過ごしていたであろうと思われます。
日ごろから防災に対する人々の意識も低く、「大丈夫だろう」と思い込み高台に避難をしようという意識もありませんでした。自分が干拓地や海抜0メートル地帯に住んでいるという自覚もない人が多かったとも言われています。浸水が予測される地域が示されている「ハザードマップ」も当時作成されてはいたものの、そのことを知っているのはごくわずかの人々だけに限られていました。住民にまで周知はまだされていなかったようです。
これらのことが被害を拡大した原因と言われています。
特に名古屋市周辺では急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が激しく、高潮に対して非常に脆弱な土地が広がっていました。そのような土地に次々と工場やビルや住宅などを建築していったことで被害が拡大したのです。
伊勢湾台風の被害金額は?
伊勢湾台風の被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵し、あの東日本大震災との比較対象に達するものとなりました。総被害額は5000億円以上とも言われています。ものすごい金額です。
伊勢湾台風の被害は、伊勢湾岸だけに留まらずほぼ全国に及んでいます。山間部では土石流や鉄砲水によって多くの家屋が流されました。川沿いでは河川が氾濫したことによって多くの家屋が浸水または流されるなどの被害が出ました。伊勢湾岸は高潮の被害が顕著でした。
田畑や家畜の多くも浸水の影響を受けました。収穫間際のお米も台無しになってしまったのです。
三重県や愛知県は産業が盛んで関連の工場も多く操業していたため、産業での被害も莫大なものになりました。戦後の日本を引っ張ってきた産業に被害が出たことで影響は日本全体に広がったのです。
復旧のための工事費用も莫大な金額がかかりました。伊勢湾台風の高潮の高さを基に全国の堤防の高さも見直されました。河川の堤防もより丈夫に作られました。
しかし、人々の努力によって驚異的なスピードで復旧作業が進められました。
伊勢湾台風の被害からの復旧
出典:http://dil.bosai.go.jp/disaster/
復旧工事にあたっては、木曽川河口付近・海岸部での高潮堤防の高さを原則7.5mとするなど、伊勢湾台風の潮位、波高を踏まえて、高さや構造が決められました。まず堤防を完成させてからポンプで浸水地域の海水を吸い出す方法がとられました。
伊勢湾台風を機に、行政は土地計画をより慎重に進めるようになりました。脆弱な土地からの移転や土地をかさ上げして高台に住宅地の整備を進めたのです。
また伊勢湾台風以前はまだまだダムの整備が進んでいませんでした。その結果豪雨で河川に雨水が集中し各地で氾濫が発生しました。復旧作業と同時にダムも建設されることになりました。ダムに貯水することで下流の急激な河川の増水を防ぐことができるからです。
伊勢湾台風では、表土の薄い山腹で人工林を中心に崩壊が発生しました。 人工林は、適切に間伐されないと林内が暗くなってしまい、地表に植物が繁茂せず、表土が流出するため雨風によって崩壊しやすくなるのです。少しでも災害に強い山をつくるためには、間伐等の森林管理を行うことも重要なのです。 林業の分野でも、災害についての研究が進められました。
伊勢湾台風の被害からたくさんの教訓を得て、自然災害に強い街づくりが各地で進められていきました。
避難を呼びかけるための防災無線やサイレンなどもその後どんどん整備されていくことになります。
まとめ
出典:http://sp.mainichi.jp/graph/select/isewantaifu/044.html
戦後最大の被害が出た伊勢湾台風。
それまで災害に対する行政の防災意識も低く、人々の備えも不十分なものでした。
伊勢湾台風を機に防災に対する考え方が変わってきました。
全国の堤防の高さも見直され、避難の誘導方法や備蓄の必要性など防災対策が急激に進められました。皮肉なことにこのような大きな災害が人々の防災意識を高めるきっかけとなったのです。「防災対策基本法」も伊勢湾台風を機に制定されました。
「うちは大丈夫」と思わずに、皆一人一人がしっかりと備えをすることが大切です。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。