みなさんは、戦後最大規模の食中毒事件と言われている『雪印集団食中毒事件』(以下、雪印事件)を覚えていますか?

記憶に新しい佐村河内氏や野々村議員など、事件後の会見で世間に強烈なインパクトを与えて、その後さらに世間を騒がせる事件もあります。

雪印事件もその1つです。

雪印は会見で、「寝てないんだよ!」の逆ギレフレーズを残して、記憶にある人も多いと思います。

そこで今回は、雪印事件について経緯や原因を振り返ってまとめ、雪印乳業の現在にも迫ってみました!

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雪印事件の概要

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雪印事件は、雪印乳業(株)大阪工場製造の乳製品、その中でも主に「低脂肪乳」を原因とする、集団食中毒事件です。

2000年6月27日に最初の被害の届け出が出されて以降、7月までに報告された有症者数は14,780名に達しています。

その原因は、大樹工場で停電のために製造ラインが止まってしまい、その対応が出来ずに菌が増殖してしまい、乳材料に毒素が発生のしたことでした。

この乳材料は、本来であれば処分するべきものですが、製造に回され毒素が残った脱脂粉乳となりました。

大阪工場で、この毒素残存脱脂粉乳が使用され乳製品を製造して出荷したため、食中毒が発生しました。

そして食中毒が発生した後の、記者発表や社告の掲載、製品の自主回収などが遅れたため、被害が関西一円に拡大して、大規模な食中毒事件となりました。

最終的に雪印乳業の社長だった石川哲郎は、事件の引責辞任に追い込まれました。

雪印事件の経緯

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停電が発生、そしてその後…

3月31日、雪印乳業大樹工場で午前11時~約3時間の停電が発生しました。

そのため、通常であれば数分間で終了するクリーム分離工程で、脱脂乳が20~30℃に加熱された状態のまま約4時間滞留しました。

そして、余った脱脂乳を溜めておく濃縮工程での回収乳のタンクでも、停電によって9時間以上冷却されずに放置されました。

この間に、黄色ブドウ球菌が増殖して、毒素であるエンテロトキシンAが大量に生成れました。

4月1日、本来であればパイプ内に滞留した原料は破棄するべきものでしたが、殺菌装置にかけて黄色ブドウ球菌を死滅させることで、安全と判断されて脱脂粉乳を製造しました。

この時、脱脂粉乳は830袋製造されました。

この中の450袋が、黄色ブドウ球菌や大腸菌、一般細菌などの検査により異常が確認されなかったため、出荷されました。

(450袋のうちの112袋が乳製品として使用されて、残りは倉庫に入りました。)

そして、380袋の一般細菌類が雪印乳業の自社規定値を1割強超過していたため、本来であれば製品に出来ないものでした。

しかし、現場の衛生管理が徹底されていなかったため、なんと4月10日に製造した脱脂粉乳の原料として、毒素残存脱脂粉乳が再利用されました。

4月10日、大樹工場ではこの毒素残存脱脂粉乳を原料として再利用して、750袋を製造し出荷しました。

そしてこの中の278袋を大阪工場が使用しています。

本来であれば処分するべきものを再利用していたとは、裏では何が行われているか分からず、不安になりますよね!

集団食中毒の原因となった乳製品が作られる!

6月20日、大阪工場は大樹工場が製造した毒素残存脱脂粉乳を入荷しました。

6月23日~28日、大阪工場は集団食中毒の被害の原因となった乳製品を製造しました。

食中毒による被害届が次々と出される!

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6月27日、大阪工場製造の低脂肪乳で食中毒症状を起こした最初の報告が、大阪市と雪印に、入りました。

その後、28日にかけて発症者の届け出が拡大しました。

被害者が訴えた症状は、下痢や嘔吐、腹痛で全体的に比較的軽い症状だったが、入院することになった重傷者もいました。

大阪市では、有症者の調査や、大阪工場の立ち入り検査などを行いました。

6月28日、大阪市は大阪工場が製造した「低脂肪乳」の、製造自粛や回収、事実の公表を指導しました。

6月29日、雪印乳業は会見して、食中毒事件の発生を公表しました。

6月30日、大阪市は問題となった低脂肪乳の回収を命令しました。

これらの間にも、大勢の患者が発生して、その被害は近隣府県市にまで及びました。

その後の動き…

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6月30日、厚生省は大阪市に職員を派遣して、関係府県市担当者会議を開催して、大阪工場が総合衛生管理製造過程の承認施設だったため、大阪市と合同での立ち入り検査を7月1日に行いました。

7月2日、大阪府立公衆衛生研究所は、「低脂肪乳」から、黄色ブドウ球菌のエンテロトキシンA型を検出しました。

大阪市はこの結果を、病因物質を原因とする食中毒と断定して、大阪工場を営業禁止にしました。

そして、大阪府警察署は業務上過失傷害の疑いで、捜査を開始しました。

7月5日、食中毒による被害者は1万人を超えました。

7月6日、雪印乳業の当日の社長だった、石川哲郎が事件の引責辞任を表明しました。

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7月10日、有症者の調査や大阪工場への立ち入り検査などの結果に基づいて、大阪市は中間報告を公表しました。

そして、報告があった有症者数は14,780名に達しました。

報告しなかった人もいたとしたらさらに…かなり大規模な食中毒だったと言えますね。

7月11日、雪印は全国21工場の乳製品の生産を停止しました。

7月25日、京都や神戸などの10工場の再開を厚生省が認めました。

8月2日、雪印の直営20工場に厚生省から安全宣言が出されました。

8月18日、大阪市は、雪印集団食中毒事件で大樹工場が4月10日に製造した脱脂粉乳の中から、黄色ブドウ球菌の毒素であるエンテロトキシンA型が検出されたと発表しました。

これにより、雪印乳製品の販売停止が広がりました。

8月19日から、北海道では大阪市からの調査依頼と厚生省の指示があったため、工場の調査を行いました。

8月23日、調査の結果、当該する脱脂粉乳の製造に関わる停電が発生したことや、基準値に違反した脱脂粉乳が使用されたこと、エンテロトキシンA型が検出された調査結果などを公表しました。

9月23日、大樹工場が停電事故対策などの改善計画書を提出し、受理されました。

その後、10月13日に営業禁止命令が解除されて、10月14日から操業が再開されました。

9月26日、雪印は大阪工場の閉鎖を発表しました。

それと同時に、来年3月期の業績の見通しを発表し、経常損益は538億円の赤字に転落しました。

12月20日、厚生省の大阪市原因究明合同専門家会議は最終報告をまとめ、食中毒の原因は、大樹工場製の脱脂粉乳と断定しました。

大樹工場で起きた停電の時に、クリーム分離工程か、濃縮工程のどちらかの回収乳タンクで、黄色ブドウ球菌の毒素が発生したと判断しました。

12月22日、雪印乳業が雪印事件についての最終報告を発表しました。

報告書では、食中毒原因は大樹工場の脱脂粉乳の製造過程であると断定した上で、3月に起きた停電によって、毒素発生の原因を大樹工場内の温度管理が不適切になったためとしました。

以上が、雪印事件の経緯です。

次では、上記の経緯から原因に迫っていきます!

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雪印事件の原因はこの3つ!

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雪印事件の原因は大きく分けて3つあります。

①直接的な原因

・大樹工場の停電

停電によって製造ラインが止まりましたが、その後の対応が出来ずに回収乳の加温状態が長引いてしまい黄色ブドウ球菌が増殖して、その結果エンテロトキシンA型の毒素が発生したのです。

食中毒が起きた乳製品は、この毒素に汚染された乳材料から製造されたため、大きな被害をもたらしました。

②組織的な原因

停電によって製造ラインが止まりましたが、その後の対応が出来ずに毒素が発生した乳材料は、本来であれば処分するべきものでしたが、そのまま製造に回されてしまいました。

これは、現場の衛生管理知識の徹底不足や、危機管理意識の欠如があって、停電した時のマニュアルもありませんでした。

停電時のマニュアルがなかったなんて、ビックリですよね!

今まで停電したことはなかったのでしょうか!?

そのため、停電によって製造工程が止まった時の、工場の再稼働手順や製品の検査、廃棄基準などが決められたマニュアルはありませんでした。

また、脱脂粉乳の細菌数が雪印の安全基準を上回りましたが、「加熱すれば安全」と判断し、それを原料に再利用して新しく脱脂粉乳を製造して、大阪工場に出荷してしまいました。

なんと、工場長をはじめとする従業員達は、エンテロトキシンに関しての知識が乏しいだけでなく、細菌から発生した毒素は加熱しても毒性が失われないという基礎の知識が欠如していました。

職場全体に食品衛生の基本的な認識が薄れていたのです。

③食中毒の被害が拡大した原因

食中毒が発生した後の、製品の自主回収や社告の掲載、記者発表など全てが遅れたため、食中毒の被害が拡大してしまいました。

被害の兆候が出始めた時に、集団食中毒に繋がる意識は全くなく、普段と同じ苦情や問い合わせと判断していました。

また、経営トップ陣達の危機管理の甘さや、回収や社告の掲載、記者発表など各所への対処の決断が遅れ、リーダーシップの欠如や、さまざまな決定にトップが関与しないことが浮き彫りになりました。

そして、事実の隠ぺいや情報伝達にも不手際が見られました。

語り継がれる伝説の逆ギレ発言会見「私は寝てないんだよ!」

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企業のトップとは到底思えない、耳を疑うような逆ギレ発言が出た会見は、いまなお語り継がれています。

雪印事件は、14,780名の多くの被害者を出しましたが、事件発覚後に商品の全面回収を発表した記者会見の時に、雪印の当時の社長である石川哲郎は、マスコミからの質問責めにあいました。

その後、会見から去る時にエレベーター付近で待ち構えていた記者団にもみくちゃにされながら、記者会見の延長を求めた記者がいました。

その記者に対して、「あと10分」と答えた所、「何で時間を限るのですか?時間の問題じゃありませんよ!」と記者から言い返されました。

そこで、石川哲郎は「そんなこと言ったってねぇ、私は寝てないんだよ!」と発言しました。

その発言を聞いた記者の一部は「こっちだって寝たないですよ!そんなことを言ったら!10ヶ月の子供もだって病院に行っているんですよ!」と猛反発しました。

これが大企業のトップの発言とは…。

ここまで来ると、あきれてしまいますね。

石川哲郎は発言後に、すぐ謝りましたがこの会話のやり取りの映像が、多くのマスメディアで配信されたことから、世間から多くの批判を浴びました。

雪印事件発生後に、製品の回収や記者発表が遅れて、世間は雪印に対する不信が強まっていました。

そんな中での発言だったため、批判はさらに高まっていきました。

その後、雪印のマスコミ対応はこの時の教訓を生かしたためか、大きく変化しました。

まず、記者会見では必ず原稿を用意することや、マスコミに対しての態度なども徹底的な指導がされたようです。

石川哲郎はその後辞任して、出身校であった小樽商科大学のOB会長を努めた後に、現在は元気に隠居生活を送っているそうです。

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雪印事件後の混乱

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雪印事件後には、親会社の不祥事でしたが雪印グループの製品が全品撤去になるなどして、グループ全体の経営が悪化してしまいました。

その後、2001年~2002年にかけてBSE問題が表面化しました。

これによって、グループ会社の雪印食品は雪印牛肉偽装事件を発生させてしまいました。

この2度目となる事件によって、雪印グループの信用は完全に失われて、雪印食品は2002年4月30日までで廃業となり、雪印乳業は2003年1月1日に、市乳部門を分割して日本ミルクコミュニティを創設したりと、事実上の解体を余儀なくされました。

その後、乳価高騰などが影響して2009年1月27日、雪印乳業と日本ミルクコミュニティは経営統合を発表しました。

そして10月1日には、両者が共同株式移転を行って、雪印メグミルク株式会社が共同持株会社として創設されました。

10月14日には、2011年4月をめどに子会社である、雪印乳業と日本ミルクコミュニティを吸収合併することを発表しました。

これにより、事業会社としての雪印メグミルクが発足しました。

まとめ

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雪印事件の経緯や原因、その後のまとめはいかがでしたでしょうか?

この頃の乳業業界は、衛生管理がすばらしいと世間に認識されていました。

そのため、雪印事件は世間に与えた衝撃がものすごいものでした。

現在、食品業界全体でもこの事件を踏まえて、各会社が安全対策の強化に取り組んでいます。

それと同時に、消費者も食の安全性を改めて考えるきっかけとなる事件でした。

今後、同じような事件が起きないことを願います。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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