1945年8月9日 11時2分。

長崎県長崎市で世界で2回目の原子爆弾が投下されました。

この原爆は人類史上実践で最後に使用された核兵器となりました。この記事では長崎原爆投下の詳細や広島原爆との比較など詳細について紹介したいいと思います。

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第一目標は長崎ではなかった?

3日前に広島に世界で初めての原子爆弾が投下されました。

その3日後に長崎へ2発目の原子爆弾投下されましたが、もともとは福岡県小倉市が第一目標とされており、第二目標が長崎でした。

小倉市はもともと陸軍が駐在したり、兵器工場がある都市として軍事的に重要な都市でした。

広島原爆投下痔と同じように、8月9日当日朝の天候状況を確認したところ、朝霧がかかっていて目標ターゲットが目視で確認できなかったことにより、第一目標を小倉市から長崎市へ変更されたといわれています。

朝霧の原因は一説では、前日に実施した隣の八幡市への空襲による残煙による影響という話もあります。

実際にアメリカ軍の報告書の表現は霧ではなく煙として残っているそうです。

その後、目標を小倉市から長崎市へ変更しました。

原爆投下前お長崎市の上空は雲がかかっていたそうですが、一部雲がなく眼下に長崎市内が見える箇所があったため、原爆投下に踏み切ったそうです。

もし、天候不良で目標地点が目視で確認できない時は、爆撃機に搭載していた原子爆弾を太平洋上に投棄しなければいけなかったようです。

しかし兵器担当の海軍中佐からの指示で目視で原子爆弾を投下できない場合はレーダーを利用した原爆投下を指示されましたが、当時レーダーによる原爆投下は命令違反だったとの事です。

最終的にはレーダーによる原爆投下を行おうとした時、雲の切れ間から一瞬だけ長崎市内が見えたことから、手動による原爆投下を行いました。

この時の状況が変わっていたら、もしかしたら長崎に原爆が投下されなかったと思いませんか?

また、戦後のいろいろな原爆についての議論も変わっていたことになったかもしれません。

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原爆投下時の詳細

原爆を投下する際、上記でも触れていますが眼下に長崎市内が見えたことで、B29爆撃機は自動運転に切り替えを行いました。

午前10時58分、高度9000メートルから原爆を手動投下しました。

原爆は放物線を描きながら落下し、約4分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3キロメートル北にある松山町の上空にて爆発しました。

B29爆撃機は原爆投下直後に、爆風を逃れるため北東へ向け155度旋回および急降下を行いました。

爆弾投下後から爆発までの間には後方に飛行していた別の飛行機から爆発の圧力、気温などを計測するためのラジオソンテ(測定器)を落下傘を付けて3個投下しました。

これらのラジオソンテは原爆の爆発後に長崎市東側に流れて、正午頃に戸石村(爆心地から11.6キロメートル)、田結村(爆心地から12.5キロメートル)、江の浦村(爆心地から13.3キロメートル)にそれぞれ落下しました。

2機の飛行機は原爆投下後しばらく長崎市上空を旋回し、被害状況について確認を行い、基地に攻撃報告を行いました。

この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録されました。

この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っていました。

この時発生したキノコ雲については、爆心地から約10キロメートルも離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真が残されている他に、遠くの県からも見えたとの証言もあります。

約100キロメートル離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言もあります。

またさらに遠く200キロメートルも離れた大分県中津市でも「8月9日原爆投下されたあの日、長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もあります。

 

広島原爆との比較

<出典:https://matome.naver.jp/odai/2140755777100214301/2140756186703460603>

長崎に原子爆弾が投下されたのは、3日前の8月6日でした。

広島に投下された原爆とはどのような違いがあったのでしょうか?ここではいろいろな角度で比較してみました。

項目 広島原爆 長崎原爆
日時 1945年8月日 8時15分 1945年8月9日 11時2分
コードネーム リトルボーイ ファットマン
爆弾の材料 ウラン325 プルトニウム
爆発威力(TNT換算) 約15キロトン 約22万キロトン
爆撃機 B29爆撃機(エノラゲイ) B29爆撃機(ボックスカー)
当時の人口 約35万人 約24万人
死者数 約14万人 約7万4千人

爆発威力は広島原爆より長崎原爆の方が強いことがこの表からわかります。

しかし、死者数は広島原爆の方が多いです。

これは原爆投下された地形が大きくかかわっています。

広島は平地でしたが、長崎は周囲に山があり、爆風など爆発の威力が遮断されたことにより被害が小さくなったと言われています。しかし、原爆で多数の人が亡くなった事実は変わりありません。

 

原爆投下直前の長崎市内の様子は?

<出典:https://matome.naver.jp/odai/2140755777100214301/2140756186703463203>

<出典:https://matome.naver.jp/odai/2140755777100214301/2140756186703463303>

当時朝から警戒警報が出ていました。

一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには警報が解除されたため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊は、軍需工場の作業に戻ったとされています。

長崎原爆戦災誌によると、広島の新型爆弾の惨状を聞いた当時の県知事は8日夜、警察の部課長や署長を官舎に集めて、同じ爆弾が長崎に落とされる恐れもあるとして、明日にでも会議を開いて対策を検討しようと指示を出していました。

そして9日、避難命令が一番いいと考えた知事は会議を招集しましたが、9日の朝に空襲警報が出たことにより警察幹部は長崎市立山の県防空本部を動けなかったため、知事が自ら県防空本部へ駆けつけて、会議を始めた途端に爆弾が投下されました。

その時、県防空本部内の電気が消え真っ暗になったそうです。

また、同盟通信社の長崎支局では、当日午前11時に県の防空課長から、「新型爆弾に対する情報を広く発表したい」との招集があったとされています。

原爆投下はその数分後であり、原爆投下直前に「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが福岡、熊本、佐賀3県のラジオ放送で流れていました。

原爆による被害状況は?

<出典:https://matome.naver.jp/odai/2140755777100214301/2140756186703463403>

原爆は浦上地区にある酸素魚雷工場の真上で爆発しました。

爆発により付近一帯を一瞬で壊滅しました。爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3キロメートル離れており、金比羅山など周囲に多くの山があり、爆風や熱に戦が遮断されなかった湾岸地域を除いて広島に投下された原爆と比べ被害は小さく、県や市の行政機能は全滅を免れました。

しかし、浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じよう悲惨な物でした。

浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時に告解(ゆるしの秘読)を行っていましたが、司祭をはじめ数十名の信者が爆発に伴う熱戦あるいは崩れてきたがれきの下敷きになって、全員が即死したといわれています。

長崎医科大学でも大勢の入院、通院患者や職員が尊い犠牲となりました。

また、長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合国軍の兵士の死傷者も大勢出たといわれています。その他には広島で被爆したあと親戚を頼って長崎へ疎開していた人が再び長崎で被爆したり、出張などで広島を訪れていた人が被爆し、実家のある長崎で再び被ばくしたという事例もありました。

 

爆発時の様子や威力について

爆発時の様子についてですが、爆発と同時に空中の一点に数千万度ともいわれる火球が発生し、体積が急速に膨張しました。爆発から一万分の一秒という瞬間に火球の直径は約30メートルに達して、温度は摂氏およそ30万度になって、さらに火球は百分の一秒から一秒の間に直径100~280メートルに達したと言われています。

火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間にわたって外部に強い影響を与えたと考えられています。

特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの間においての赤外線であったと言われています。

一説では爆発時点の地上の表面温度は、恐らく3000~4000度にも達したと推定されています。

お湯が沸騰する温度が100度、鉄が溶ける温度が1000度超ということを考えると、3000~4000度というのは想像するのが難しいと思いませんか?

併せて、爆発に伴って発生した物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がって、物を破壊し押し潰しました。

それと同時に強い爆風が起こり大きな被害が発生しました。

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爆心地付近の現在はどのようになっている?

<出典:http://tabisuke.arukikata.co.jp/mouth/62414/image>

<出典:http://img.4travel.jp/img/tcs/t/tips/pict/src/113/065/src_11306509.jpg>

長崎の被爆地付近には広島の原爆ドームのように、視覚的に当時の状態のまま残されている建造物はほとんどありません。

その背景としては、当時建造物の保存よりも復興を優先したためと言われています。

そのため浦上天主堂をはじめとする被爆建物のほとんどが取り壊されました。しかし、再建されている建物もあり、現在も当時の様子を伝えるのに一役かっている状況です。

写真は現在の平和記念公園の平和記念増と立て直された浦上天主堂です。

平和記念像の意味についてですが、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表しており、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っていることを表現しています。

動画

まとめ

いかがでしたか?人類史上2回目の原子爆弾による被害を受けた長崎では今なお苦しんでいる方がたくさんいらっしゃいます。

また、高齢となり後世へ被爆体験を伝える方も少なくなっていることも事実です。

戦後の核廃絶運動の中心となっている長崎の想いを、今後も世界へ発信してほしいと思います。

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