2019年5月1日、いよいよ皇太子さまが新天皇に即位されます。

それに合わせて5月1日の午前0時には元号が平成から「令和(れいわ)」に改まることが決定しましたね〜!

2019年5月1日が特別な日になることは間違いないのですが、5月1日はメーデーだということも忘れてはなりません。

日本では戦後にメーデーが再開されましたが、1952年のメーデーは『血のメーデー事件』と呼ばれるほど大きな事件に発展したことをご存知でしょうか。

血のメーデー事件の目的とは一体何だったのでしょうか。

そこで今回は、血のメーデー事件についてわかりやすくまとめてみました!

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血のメーデー事件とは

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1952年5月1日、第23回メーデーで使用不可とされていた皇居前広場に参加したデモ隊が突入して警官隊と衝突し、2人が死亡した事件です。

戦後の学生運動で、初の死者を出してしまった事件でもあります。

メーデーについてわかりやすく説明すると、毎年5月1日に行われる国際的な労働者の祭典のことです。

発端となったのは1886年5月1日にアメリカで行われた8時間労働制を要求するデモでした。

事件の経緯

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それでは、血のメーデー事件の経緯についてわかりやすく説明していきます!

事件前

1946年5月1日、戦後初めてとなるメーデーが10年ぶりに皇居前広場で行われました。

戦後、皇居前広場は国が管轄する「国民公園」の1つとなったため厚生省が管理しており、1946年のメーデーで初めて会場に使用されてから1950年までの4年間メーデー会場として使用され、「人民広場」と呼ばれていました。

1950年6月、人民決起大会で米兵への暴行事件があり、それ以降皇居前広場での集会は一切禁止されることになり、1951年のメーデーは芝公園で行われることになりました。

1952年4月、吉田内閣が前年に続き皇居前広場をメーデーの会場に使用することを禁止しましたが、日本労働組合総評議会は不許可を取るために訴訟をおこしました。

1952年4月28日、東京地裁が総評議会の主張を認める判決を下しましたが、これに政府は控訴し皇居前広場の使用不許可を解くことはありませんでした。

メーデーはあと3日後に迫っていたため二審には間に合わず、メーデーの集会は明治神宮外苑広場を使うしかなくなりました。

1952年5月1日のメーデーは、制定されたばかりの日米安全保障条約への批判も強く、皇居前広場の使用問題なども重なり参加者の不満が溜まっていました。

そのため、参加者たちが皇居前広場への行進を強行するばすとの情報が流れたり、警視庁予備隊が催涙弾の発射演習を行うというニュースも流れるなど、メーデー前には不穏な空気が漂っていました。

事件発生

1952年5月1日、第23回メーデーの決起集会は午前10時20分頃に開会し、午後0時10分に閉会しました。

大会の途中には、皇居前広場への乱入をあおろうとする乱入者が相次ぎました。

その後、午後0時25分からは北部、東部、南部、中部、西部のそれぞれのコースに分かれてデモ行進に移りました。

デモ行進の最中も皇居前広場への乱入をあおるような動きが相次いで起こり、一部のデモ隊は予定のコースから外れたり西部コースの指導者は乱入を防ぎ暴行を受ける事態になりましたが、予定の解散場所に到着して解散しました。

しかし、日比谷公園で解散した南部コースを中心としたデモ隊の一部が全学連と左翼系青年団体員に先導されて、朝鮮人や日雇い労働者たちの市民およそ2,500人がスクラムを組み日比谷公園正門から出始めました。

警視庁はメーデー前に参加者たちが皇居前広場への行進を強行するなどの情報が流れたため、およそ5,600人の部隊を編成し警備にあたり、各署員1万人以上を待機させて即応体制を整えていました。

そのため、日比谷交差点を通過して無届けデモを強行したデモ隊に対し、丸の内警察署長以下60人が制止にあたりましたが投石や棍棒による攻撃を受け、13人の負傷者を出してしまいました。

その後、デモ隊は駐留アメリカ軍人の19台の車に投石をして窓ガラスを破壊しながら北上し、馬場先門では第一方面予備隊や3つの警察署が警備に当たっていたものの、第一方面予備隊の一部が拳銃や催涙弾を装備していた以外は警棒を携帯しているだけの状態でした。

さらに、デモ隊が過激であったため周囲への被害を考慮した第一方面予備隊が車道の警戒線を解いたため、デモ隊が皇居前広場になだれ込みました。

乱入したデモ隊は二重橋の正面で警備をしていた丸の内警察署員や増援の第一方面予備隊に対して投石を開始し、祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官が袋叩きにされ拳銃を奪われる緊急事態に!

警察部隊は催涙弾を使用して事態の鎮圧にあたりデモ隊とにらみ合いの状態となりましたが、その頃には桜門や祝田橋でも警戒線が突破され暴動を起こした人たちは8,000人に増加していました。

警察部隊も予備隊の配置転換を行い体制を強化しましたが、暴動を起こしたデモ隊との攻防は激しさを増し、やむなく拳銃を使用する一幕もありました。

その結果、暴動を起こしたデモ隊は混乱に陥ったため、警察部隊は体制を整えて一気に事態の鎮圧を図り皇居前広場に乱入したデモ隊の大部分を広場の外に排除しました。

しかしこれでは収まらず、その後もしつこく攻撃を繰り返し祝田橋では第一方面予備隊の4人が包囲された上、角棒で打たれて凱旋濠に投げ込まれると投石を加えられました。

さらに他の4人も包囲され暴行を受けそうになったため拳銃で威嚇射撃をしてやっとのことで難を逃れる状況でした。

警察部隊への暴行はこれだけではなく、拳銃を奪われる事態もありました。

午後3時50分頃、桜門前溝端側に駐車されていた車14台を転覆させて火を放ち炎上させると、サイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲み暴行を加えるとサイドカーにも放火しました。

それらの消化のために出動した消防隊も投石などを受け13人が負傷し、ホースも切り破られてしまうことに!

これらの暴徒は午後4時頃には収まりつつありましたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃され、日比谷公園に逃げ込み投石を続ける人もいました。

最終的に皇居前広場や日比谷公園が落ち着いた生活に戻れたのは午後6時過ぎのことでした。

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事件の結末

事件発生により警察部隊とデモ隊が争う結果となり、デモ隊側は死者1人、重軽傷者は約200人、警察側は負傷者832人で重傷者71人を出す流血の大惨事となってしまいました。

そして、事件発生当日は現在の自衛隊である警察予備隊の出動が検討されていましたが、一般警察により収拾されたため出動はしませんでした。

ちなみに、血のメーデー事件に出動した予備隊とは警視庁予備隊のことで、現在の自衛隊のことではなく機動隊のことです。

1952年5月1日のメーデー決起集会の目的はは、再軍備反対や低賃金改善などだったのですが、その後のデモ活動では全学連や朝鮮人大学生などの過激派による日米安全保障条約反対の抗議の目的も込められたデモ活動になりました。

それに加え、皇居前広場の使用奪還を目指す目的も加わり、一部の左翼団体が暴力革命準備のための実践の一環として過激な行動を起こしたとも見られています。

事件後に長期裁判

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血のメーデー事件ではデモ隊から1232人が逮捕され、そのうち261人が騒擾罪(そうじょうざい)が適用され起訴されました。

騒擾罪とは聞きなれない言葉ですが、騒乱罪や騒動罪とも言われます。

騒擾罪とは何かわかりやすく説明すると、大勢で集まり暴行や脅迫行為などを行い公共の平安を侵害する罪のことです。

騒擾罪が適用されることは珍しいことのようですよ〜!

裁判は検察側と被告人側の対立が激しく長期化し、1970年1月28日に行われた東京地裁にのる一審判決は騒擾罪の一部成立を言い渡しました。

その後、1972年11月21日に行われた東京高裁による控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄し16人を暴力行為等の有罪判決にしたほかは無罪とし、検察側が上告を断念したため確定しました。

血のメーデー事件の裁判は、一審だけで18年もかかるとても長い裁判となりました。

そして、国会では事件直後から与野党間で事件の責任をめぐり激しい応酬が繰り広げられました。

その他、相次いだ騒乱事件の対処の不手際や破壊活動防止法案などの制定に反対する立場から、衆議院で木村篤太郎法務裁判の不信任案が退出されましたが、否決されました。

血のメーデー事件と同じ時期には白鳥事件や吹田事件、大須事件や、中核自衛隊・山村工作隊による事件なども起こりました。

さらに、1952年6月2日に公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破を行った菅生事件も発生し、事件発生の5ヶ月後の総選挙では日本共産党が全議席を失う事態となってしまいました。

その後、日本共産党が全議席を失う前と同じ水準の議席を取り戻したのは、1970年代になってからのことでした。

まとめ

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血のメーデー事件についてわかりやすくまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。

戦後の学生運動で初の死者を出してしまった事件でしたが、その目的は日米安全保障条約反対や皇居前広場の使用奪還を目指すものでした。

これほどまでに激しいメーデーがあったとは驚きました!

2019年5月1日は皇太子さまが新天皇に即位されるため、その話題一色になると思いますがメーデーはどうなるのでしょうか。

このような事件が二度と繰り返されないように願います。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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