最近はあまり見なくなりましたが、テレビのニュースなどでデモ活動の様子を見ることがあります。

現在はこのようなデモ活動はほとんど行われていませんが、1960年から1970年までの間には各地で盛んに行われていました。

その中でも特に大規模なデモ活動となった『安保闘争』をご存知でしょうか。

当時、国民はなぜ反対してデモ活動を行なったのか気になります!

今回は安保闘争についてわかりやすくまとめました。

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安保闘争とは?

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それでは、安保闘争の経緯についてわかりやすく解説していきます!

まず、安保闘争とは1960年と1970年に日米安全保障条約の改定に反対するために起きた大規模なデモ活動のことです。

日米安全保障条約(以下、安保条約)とは、仮に条約を結んだ国が攻撃された場合に条約を結んだ国々が助けるという軍事条約のことです。

1960年、この安保条約の改定は無理がある形で可決されたのですが、この結果を受けて当時の岸信介内閣が総辞職し各地で左翼の運動が活発化されました。

その10年後の1970年には、今度は安保条約の更新に対してのデモ活動が行われ、これにより日本での左翼の運動は低迷していきました。

また、日本社会党などが衰退していくこととなりました。

安保闘争の経緯

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安保闘争とは大規模なデモ活動だったことがわかりましたが、なぜ反対運動をしたのでしょうか。

安保闘争の経緯についてわかりやすく説明していきます!

安保条約の締結

安保闘争には安保条約の締結が大きく関係しています。

第二次世界大戦後の1951年、日本はサンフランシスコ平和条約により独立が認められ、連合国による占領から解放され主権を回復しました。

しかし、第二次世界大戦後にはアメリカとソ連の間で冷戦が続きました。

日本では戦力を持ってはいけないとの憲法も制定されており、万が一日本に攻撃が及ぶことになれば危険な状態であることは簡単にわかりますよね。

そのため、サンフランシスコ平和条約と同日に日本が攻撃されてしまった時はアメリカ軍が助けるという条約を結びました。

この条約が、安保条約です。

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安保条約の内容をわかりやすくまとめてみると…。

・日本はGHQが解体されてもアメリカ軍を駐留させることを認める。

・日本は第三国への基地の提供を禁止する。

などがあり、これでは日本はアメリカにしか頼るこができないことがわかります。

さらに、安保条約にはアメリカは日本を必ず助けることにはなっておらず、日本にとってはアメリカの属国として見られてしまう可能性もあり、問題がある条約でもありました。

ここで動き出したのが、当時の日本の首相の岸信介でした。

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岸信介は、日本とアメリカの対等な安保条約を結ぶため、首相に就任した年からアメリカとの交渉を開始しました。

実は、アメリカ側も朝鮮戦争やベトナム戦争などの影響でアジア全体が社会主義国化になりつつあったため、貴重な西側諸国の日本にも軍事力を持たせることを考えていたのでした。

1960年、当時のアメリカ大統領のアイゼンハワーは日本との安保条約を改定しました。

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とても気になる改正後の安保条約の内容をわかりやすくまとめてみると…。

・日本とアメリカのは条約に従い日本を防衛する

・日本とアメリカのどちらかが攻撃された場合、その片方の国も協力する

・日本とアメリカはお互いに経済協力をして発展することに努力する

・10年こどに条約を改定する

などがあり、前回の安保条約に比べて日本とアメリカが対等であることがわかりますよね〜!

これなら大丈夫だ!と思ってしまいそうですが、そう簡単にはいきません。

日本では条約を結んだり改定する時には、国会での承認を得なければ成立しないためです。

実は、岸信介は第二次世界大戦の局面である太平洋戦争時の閣僚でA級戦犯に認定されており、国内では「日本が再び軍国主義に戻るのでは?」と疑念を持つ人が多く出てきたのです。

それだけではなく、左翼政党で反アメリカ派であった日本社会党と日本共産党が安保条約の改定に猛反発することに!

この影響を受けて、日本共産党から離れた学生らが中心の組織である共産主義同盟や全日本学生自治会連合が安保条約に反対するデモ活動を行い安保闘争が始まったのでした。

なぜ反対してデモ活動が始まったのかというと、日本が戦争に巻き込まれる可能性が出てきてしまったからだったのです。

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安保条約が強行採決

安保条約の改正に対してのデモ活動が始まりましたが、岸信介はなんとか国会で可決させるべく反対している日本社会党と日本共産党を国会から排除させて、無理のある形で新しい安保条約を衆議院で可決させることに成功しました。

しかし、誰からみても無理矢理に可決されてしまったことで怒りが頂点に達した安保改定阻止国民会議が全国各地で反対するデモ活動や集会を開催し、30万人以上のデモ隊が国会議事堂を取り囲むなど大規模なデモ活動へと発展していきました。

30万人以上とは、現在では考えられませんよね〜!

さまざま事件が発生

デモ隊の怒りはついにアメリカにも向けられ、アイゼンハワー大統領が訪日する際の準備のために来日していたハガティ報道官をデモ隊が取り囲む事件が発生!

その後、ハガティ報道官は無事に救出されました。

さらに、デモ活動で全学連の主流派が衆議院南通用門から国会に突入した際に、警官と衝突して樺美智子が圧死する事件も発生!

この事件により、学生が暴走を始めることとなってしまいました。

他にも、右翼団体による日本社会党襲撃事件により、委員長であった浅沼稲次郎が暗殺されるという事件まで!

この状況に、岸信介は臨時声明を出すと治安部隊が出動しようとする動きも見られました。

しかし、これほどまでのデモ活動を行っても安保条約改定の動きは変わることはなく、可決されてから30日後には衆議院も通過し、新しい安保条約は成立することになりました。

安保条約は成立したものの大規模なデモ活動の影響が少ないはずはなく、事態の終わりが見えずに岸信介内閣は総辞職することになり、安保闘争は終結したのでした。

1970年安保闘争

改定された安保条約の中には、10年ごとに更新するという項目がありました。

当時の日本では学生運動が盛り上がっており、有名な安田講堂事件や日大闘争などが起きていたのもこの頃でした。

このような状況の中で安保条約の更新に黙っているわけがなく、学生運動は安保条約の更新にも影響を与え各地で安保条約に反対するデモ活動が繰り広げられました。

しかし、このデモ活動も国会への影響はなく安保条約が更新されることがスムーズに決定されました。

また、左翼団体は安保闘争だけでなく成田闘争やベトナム反戦運動なども行なっていたため、どんどん疲れ果てていきました。

さらに、新左翼組織の連合赤軍があさま山荘事件などのテロや犯罪行為をしてしまったことにのり、共産主義者にテロ組織のイメージが定着していきました。

その影響を受けて社会主義に対しての反感が強まり、総選挙で自民党が議席を伸ばすと社会主義の日本社会党は50議席を失うことに!

その後も、日本社会党ではリクルート事件なども起きてしまいしばらく低迷することとなりました。

まとめ

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安保闘争についての経緯や、なぜ反対運動が行われたかなどをわかりやすくまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。

なぜ反対して大規模なデモ活動になったのかというと、日本が安保条約を改正したことにより日本が戦争に巻き込まれる可能性が出てしまったためでした。

安保闘争が起きても安保条約は改定されましたが、事態の影響はあまりにも大きくて岸信介内閣は総辞職をすることになりました。

さらに、1970年に起きた安保闘争では左翼や日本社会党のイメージダウンにつながっていきました。

現在も、安保条約へ反対する人がいなくなったわけではなく反対運動は続いているようですので、今後どうなっていくのかも注目です。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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