みなさんは、アパルトヘイトという言葉をご存知でしょうか。

現在の日本の常識ではとても考えられないのですが、南アフリカ共和国にあったアパルトヘイト政策では人種差別が制度化され、撤廃されることになった1994年まで堂々と行われていました。

わりと最近まで、このような制度があったとは驚きですよね〜!

なぜ、アパルトヘイト政策は続けられてきたのでしょうか。

また、撤廃された後の状況も気になります!

そこで今回は、アパルトヘイトについて分かりやすくまとめてみました。

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アパルトヘイトとは

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それでは、アパルトヘイトについて分かりやすく説明していきます!

アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国が国の政策として行っていた人種差別政策のことです。

その内容とは、南アフリカ共和国の全人口の約15%の白人を優遇して、その他の黒人などの人種を差別するというものでした。

アパルトヘイトとは、オランダ語と現地語が融合して変化したアフリカーンス語語で「隔離」という意味です。

アパルトヘイトが国の政策として確立し正式なものになったのは、1948年に総選挙でオランダ会の白人が結成した国民党が勝利してからでした。

その後、1950年代にかけてアパルトヘイトに関連した法律が次々と制定されていきました。

国の政策ですので公に人種差別をしていたわけですが、撤廃されたのは1994年とわりと最近なんです!

日本では考えられない政策ですよね〜!

具体的にアパルトヘイトでどんな差別が行われていたのでしょうか?

主なものを分かりやすくまとめてみました!

隔離施設留保法

公共施設であるホテルやレストラン、バス、列車、公園、公衆トイレ、海水浴場、教会、映画館、劇場、学校、エレベーターなどが白人用と有色人種用に区別されました。

トイレまで区別されるとは…。

集団地域法

人種ごとに住む地域が限定され白人は産業が盛んで良い環境の地域に住み、黒人は産業が乏しい不便な地域に住むことになりました。

そのため、もともと環境の良い地域に住んでいた黒人は強制的に移住することに…。

雑婚禁止法

異なる人種同士での結婚が禁止されました。

背徳法

異なる人種同士での結婚だけでなく、恋愛関係になることが禁止され噂になるだけでも罰せられました。

噂なんてウソかもしれないのに…。

これらの他にもありますがこれほど酷い政策が長く続くわけがありませんよね〜!

当然だと思いますが、アパルトヘイトは国際社会からも非難されることになりました。

アパルトヘイトが続けられた理由

アパルトヘイトがとても酷い政策だったことは分かりましたが、なぜこのような政策が1994年まで続けられてこれたのでしょうか。

その理由としては、南アフリカ共和国は資源が豊富で入手しにくいレアメタルの産出国であったことが大きく関係しています。

レアメタルとはとても希少な金属のことですが、アパルトヘイトについて非難してしまうとレアメタルの輸出を断られる弱味があったのです。

その結果、国の政策として人種差別が堂々と行われ続けてしまったのですね〜。

しかし、その弱味も冷戦が終わりソ連が崩壊したことで、独立した国々からのレアメタルの輸出が可能となり、国際社会は南アフリカ共和国にアパルトヘイトへの非難ができるようになりました。

そのため、最終的には南アフリカ共和国はアパルトヘイトを続けることができなくなってしまったわけです。

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反アパルトヘイト運動

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1918年に南アフリカにあるクヌ村の首長の息子として誕生したネルソン・マンデラは、幼少期から部族社会の歴史などを学びキリスト教徒として育ちました。

その後、1944年にアフリカ民族会議に入党したネルソン・マンデラは反アパルトヘイト運動を本格化し、黒人のみが義務づけられてきた身分証明書を焼くなどの非暴力行為をしていました。

1962年、それまで非暴力抵抗運動をしていたネルソン・マンデラでしたが、アパルトヘイトが継続されるどころかますます強化されていっため、武装闘争路線に変更したことで国家反逆罪で逮捕されてしまいました。

そこからなんと、ネルソン・マンデラは27年もの牢獄生活を送ることになったのですが、刑務所内ではアパルトヘイトを主導していたアフリカーナの歴史や言語、好んでいたラグビーの勉強をしていたそうです。

誰にでもに出来ることではないですよね〜!

1990に70歳で釈放されたネルソン・マンデラは、当時の白人最後の大統領であったデクラークと共にアパルトヘイト撤廃運動を続け、1993年にノーベル平和賞を受賞しました。

そしてついに、1994年に全人種が参加する大統領選挙が行われネルソン・マンデラが大統領に就任することに!

1994年5月1日に行われた大統領就任式典での記念演説では、ネルソン・マンデラは新しく生まれ変わった南アフリカ共和国を「虹の国」にたとえました。

なぜ虹の国と表現したのか分かりやすく説明すると、「雨上がりの青空にかかる七色の虹のように、全ての人種がお互いの違いを認めて対等に力を合わせて、開かれた国を目指す」という決意が込められています。

そして、この大統領就任記念演説には15万人の群衆が集まっていたそうです。

ネルソン・マンデラに多くの期待が寄せられていたことが分かりますよね〜!

これと同時期に憲法も制定され、アパルトヘイトは撤廃されることになりました。

大統領になり絶対的な権力を得たネルソン・マンデラですが30年近くも牢獄生活を送っていたにも関わらず、白人達に対して一切の復讐はしませんでした。

さらに、ネルソン・マンデラは本当は終身刑だったため、釈放されないはずでしたがそのような状況でも敵対関係である白人の看守達と仲良くなろうとしていたとか!

もし自分が同じ立場だったら、復讐することばかり考えてしまうような…。

ネルソン・マンデラは、まさに偉人です!

アパルトヘイト撤廃!その後は?

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1994年年にネルソン・マンデラが大統領に就任しアパルトヘイトが撤廃されてからは、白人政治家も閣僚に加えるなど人種融和政策に積極的に取り組むなど、「虹の国」の建設を進めていきました。

それに伴い国旗や国歌を新しく制定したり、1995年に開催されたラグビーのワールドカップで南アフリカ共和国チームが優勝し、人種融和政策が盛り上がりをみせました。

しかし、経済政策の面では急激な政策を行わなかったため、貧富の差が拡大され治安の悪化などか進んでしまうことに…。

アパルトヘイトが撤廃されてからすべてが上手く進んだわけではなく、課題も残すことになったんですね〜。

1996年になると新しく憲法が制定され、部族の言語を含めた11の言語を公用語とし人種融和政策をさらに進めていきました。

ネルソン・マンデラは大統領に就任した時にすでに76歳だったため、大統領の任期は1期で終えることになり1999年6月に大統領を辞任しました。

大統領を辞任してからは、ネルソン・マンデラ財団やネルソン・マンデラ子供基金、マンデラ・ローズ財団なとを設立し、エイズに苦しむ人たちや子供たちへの支援をされていたようです。

ネルソン・マンデラの後任として、与党アフリカ民族会議(ANC)の急進派であったタボ・ムキベが選出されましたが、国民党の連立離脱やANC内での急進派と穏健派の対立、タボ・ムキベ政権での汚職疑惑など、順調にはいきませんでした。

2010年6月、南アフリカ共和国でサッカーのワールドカップが開催され、ネルソン・マンデラの開会式への出席が期待されたのですが、その前日にひ孫が交通事故に遭い死亡するという不幸があったため出席は取りやめられました。

その後の閉会式には参加したのですが、この時すでに前立腺癌の治療を受けていたため体力の衰えを隠すことはできませんでした。

2013年6月、ネルソン・マンデラは肺の感染症により入院し、2013年12月5日に95歳で生涯を閉じることになりました。

まとめ

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アパルトヘイトについて分かりやすくまとめてみましたが、いかがでしょうか。

アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国が国の政策として行っていた人種差別政策のことです。

その内容を見てみるとかなり酷い政策の内容でしたが、ネルソン・マンデラの大きな力により撤廃されました。

ネルソン・マンデラは年齢の関係もあり大統領を1期で辞任されましたが、もう少し早く大統領に就任されていたとしたら撤廃後の状況は大きく変わっていたかもしれませんね~。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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