1969年1月18日に、学生達が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占領した、東大紛争を知っていますか?
これは、警視庁が封鎖解除を行った事件でもあります。
1960年代は、日米安保条約やベトナム戦争に対する反対をめぐって、学生運動が活発に行われていた時代です。
現在からは想像も付きませんよね!
そこで今回は、東大紛争とは何なのか?起きた原因などについて詳しくまとめました。
東大紛争とは?
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東大紛争とは、東京大学で1968年から1969年の間続いた大学紛争で、東大闘争とも呼ばれています。
医学部の処分問題や、大学運営の民主化などの問題に対して、学部生や大学院生と当局の間で争われました。
東大紛争の原因は?
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1968年1月、東京大学医学部の学生や研修医達が、インターン制度の改善を要求するための運動を始めたことがきっかけでした。
なぜ、インターン制度の改善を要求したかというと、とても劣悪な制度だったからです。
日本の臨床研修は「臨床実地研修制度」として、戦後から始まりました。
これは、大学を卒業してから1年間「臨床実地研修」をした後に、医師の国家資格の受験資格を得られるというものでした。
そのため、この研修中の学生達は、学生でも医師でもなく、給与の保障もほとんどないまま不安定な身分で診療をしていました。
学生運動は、これらの待遇を改善するために起こったのです。
学生運動は、東京大学だけではありませんでしたが、その中でも有名なものが「東大紛争」です。
学生達は運動の一貫として、医学部の教授を拘束しました。
そして大学側は、事件に関わった17人を退学や停学処分にしました。
しかし、当時現場にいなかった学生までが処分の対象とされ、大学側がその誤りを認めなかったため、学生達が抗議しました。
冤罪だったのです。
すると、当時の大河内総長は、学生達を排除するために警視庁機動隊に出動を要請しました。
東大紛争は、大学側が誤って関係のない学生を処分したことが原因で広がりました。
インターン制度は1968年に廃止されています。
東大紛争の沿革
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1960年代後半に、全国の医学部の学部生と研修医によって、青医連が始めたインターン制度などの廃止を求める、待遇改善運動が台頭し、東京大学医学部はそれらの中心的な拠点校となっていました。
まず、1968年1月に医学部学生達は登録医療制度の導入廃止や、附属病院の研修内容改善などの要求を掲げて、無期限のストライキ突入を決議しました。
これにより、医学部は紛争状態に入りました。
2月、学生と医局員との間で衝突事件が起きて、大学側が学生や研修医17名を処分しました。
しかし、その中の学生1人が現場にいなかったことが判明し、学生側は処分の撤回を求めましたが、大学側は一歩も譲りませんでした。
そのため、紛争が停滞の局面に入りました。
6月中旬、停滞の局面を打開するために一部の急進派の学生が、自治会の統制を離れて安田講堂を占拠しました。
これに対して、大学総長は占拠学生を退去させるため、6月17日に警視庁機動隊を学内に導入し対応しました。
しかし、この機動隊の導入が紛争を全学部に拡大させる結果となりました。
なぜならば、機動隊の導入が大学自治の放棄であるとされ、学部を超えて多くの学生と教職員の反発を招いてしまったからです。
当時の大学は「学問の府」として、学生の間に何者にも干渉されない聖域という意識がとても強いものでした。
そのため、大学に警察が導入されることは、当時の学生達にとってはあってはならない出来事でした。
現在では考えられない意識ですよね!
6月20日、東大七者連絡協議会(以外、七者協)などの呼び掛けにより、法学部を除く全学部の自治会が機動隊導入に抗議するため、一日ストライキを行いました。
安田講堂前で開かれた、その抗議集会には約6000人が参加しました。
7月上旬、安田講堂は再び、各自治会の執行部より急進的な一部の大学院生などにより占拠されました。
そしてこれに、新左翼セクトが加わって、東大闘争全学共闘会議(以外、全共闘)が結成されました。
全共闘では、当局に対して医学部処分撤回や機動隊を導入したことに対する自己批判を求めるものなど7項目の要求を掲げました。
8月10日、当局は7項目の要求のうち、6項目を受け入れる解決案を示したが、全共闘はこれを拒否しました。
10月上旬、全共闘主導によって全学部自治会が無期限のストライキに入りました。
その後、全共闘は「東大解体」を主張し始め、戦術を「全学バリケード封鎖」へと過激化させました。
11月、ストライキの長期化や民青系の巻き返しによって、東大民主化行動委員会(青民系)と無党派学生グループ(クラス連合や有志連合など)が台頭して、全共闘と激しく対立しました。
11月1日、東大当局では、大河内総長と学部長全員が辞任しました。
そして新たに、加藤一郎を総長代行として新しい執行部が構築され、紛争を収拾するために動き出しました。
11月中旬、加藤総長代行は紛争を解決するために、学生側に全学集会の開催を呼び掛けました。
これに対して、七者協や民主化行動委員会が、各学部や院系から統一代表団を選出するための運動を始めました。
11月~12月、民主化行動委員会と無党派グループが共同して代表団を選挙させて、統一代表団を形成しました。
1969年1月10日、全学集会が開かれ、加藤総長代行と統一代表団が「確認書」を取り交わしました。
「確認書」の内容は10項目あり、医学部処分の白紙撤回や、自治活動の自由化、これからの大学改革の方向性などがありました。
全学集会の前後には各学部や院系のストライキが次々に解除されて、多くの東大生が当局を相手とする紛争から離脱しました。
東大安田講堂事件
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多くの東大生が紛争から離脱したため、少数派となった全共闘は、闘争の継続を主張しながら、安田講堂等校舎の占拠や封鎖を続けました。
1月18日、当局の出動要請を受けた機動隊8500名が、安田講堂等の封鎖解除と共闘派の学生の大量検挙を行いました。
学生達は石や火炎瓶などを投げつけて、激しく反発しましたが、翌日の19日には、封鎖は解除となりました。
これにより、全共闘は大きな打撃を受けたため、紛争が収拾されていきました。
その後、佐藤内閣が1969年の東大入試の中止を決定しました。
東大安田講堂事件以降、全共闘は急速に退いていき、1969年中に東大紛争は完全に収束しました。
他から異論は出ているが、警察側の記録によれば、19日の安田講堂の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわすが38人でした。
他の大学では明治大学や中央大学、日本大学、法政大学の学生が多く、高校生でも唯一、神奈川県相模原高等学校生が検挙されています。
東大安田講堂事件も含めた東大紛争全体になると、767人が逮捕されて、616人が起訴されています。
そして、一審判決で133人に実刑判決が下り、400人以上が執行猶予付きの有罪判決となり、無罪判決が12人でした。
そして、安田講堂は紛争後にしばらく放置されていましたが、富士銀行(現在はみずほ銀行)やその他企業からの寄付を受けて、1990年に大規模な改修工事が行われました。
まとめ
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東大紛争のまとめはいかがでしたでしょうか?
東大紛争の原因は、大学側が誤って関係のない学生を処分したことでした。
東大安田講堂事件は、学生を逮捕するという形で幕を下ろしましたが、それが学生運動の分岐点になりました。
その後、日常に戻った人もいれば、もっと過激な紛争に身を投じていった人もいます。
東大紛争の後、加藤総長代行は紛争に加担した学生であったとしても、一切条件をつけずに、大学に戻りたいものはそれを許しました。
時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、紛争の発端の原因が大学側にあったとしても、今では考えられませんよね。
今では、完全に落ち着きを取り戻し、超難関の大学として有名な東京大学のため、事件が想像出来ないですが、学生達が戦った忘れてはいけない事件ですよね。
語り継がなければならないと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!