皆さんの記憶に残っているのが、1991年(平成3年)6月3日に発生した火砕流だと思います。この火砕流では、死者40人、行方不明者3人、負傷者9人、建物被害179棟という火山災害では非常に大きな災害でした。火山の噴火といったら、火山灰が落ちてきて、岩が空に舞い上がって落ちてくるというイメージをお持ちの方がいるかもしれません。

ここでは、雲仙普賢岳の噴火前から噴火後、噴火が終息するまでの出来事を紹介したいと思います。

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雲仙普賢岳の歴史について

出典:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp

昔から火山、地震が発生していたこの地域ですが、実際に噴火の跡が残っていたり、地震が発生していました。

近年では、1934年(昭和9年)3月16日に雲仙国立公園(現在の雲仙天草国立公園)として日本で最初の国立公園に選定されました。また、1957年(昭和32年)雲仙ロープウェイが開業し、観光地としても脚光を浴びるようになりました。

大火砕流発生まで

出典:https://www.jiji.com/jc/d4?p=unz002&d=d4_news#photo5

1990年(平成2年)11月17日、約200年ぶりに噴火活動を開始しました。

200年前の噴火では死者、行方不明者を合わせると15000人という大参事でした。

過去の噴火をもとに同じような状況が発生しても対応できるように対策本部が設置されました。

11月17日に発生した内容としては、山頂付近にある神社脇の2か所から噴煙が立ち上がり噴火し、この噴火は2つの噴火孔より熱水の噴き上げと雲煙のみでした。

12月には小康状態になり道路の通行止めなどは解除され、そのまま火山活動は終息するものと思われていました。

しかし、1991年2月12日には再噴火が発生し、さらに4月3日、4月9日と噴火は拡大していきました。5月15日には、降り積もった火山灰などにより、最初の土石流が発生しました。さらに噴火口の西側に東西方向に伸びる多数の亀裂が入り、マグマの上昇が予想される事態となりました。

2月の噴火以降は多量の火山灰が普賢岳に堆積し、周囲を流れる水無川等を中心に土石流や泥流の発生が予想されたため、長崎県ワイヤーセンサーの設置、砂防ダムの除石等の緊急対策を実施しました。

住民への情報伝達方法や避難体制等はこの時点で未実施でしたが、先ほどの緊急対策が有効に働き、5月15日以降に発生した土石流に対しては対応を行う事ができました。

5月20日に噴火口から溶岩の噴出が確認され、溶岩は粘性が高かったことにより流出されず、火口周辺で溶岩ドームが形成されました。

溶岩ドームは桃状に成長した後、やがて4つに崩壊しました。

その後、溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給されたため、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になりました。新しく供給されるマグマによって、溶岩ドームが押し出されることによって溶岩ドームが斜面に陥落ました。その際、破片が火山ガスとともに時速100キロメートルという猛烈なスピードで流れ下る火砕流といわれる現象を引き起こしました。

時速100キロメートルということは高速道路で走っている車のスピードと同じくらいと考えると想像しやすいと思います。

そのようなスピードで高熱を伴う火砕流が近くに迫ってきていると考えると本当に恐ろしいと思いませんか?この次は大火砕流が発生した時の様子について記載したいと思います。

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大火砕流発生時

出典:https://www.jiji.com/jc/d4?p=unz002&d=d4_news#photo14

1991年(平成3年)6月3日 16時8分に大規模な火砕流が発生しました。

火砕流については先ほど書いたところですが、この大火砕流では死者40人、行方不明者3人、負傷者9人という被害が発生しました。

この大火災流が発生する少し前、15時30分以降は小規模または中規模の火砕流が頻繁に発生していた状況でした。

15時57分に最初の大規模な火砕流が発生しました。この火砕流では、取材を行っていいた報道陣が居る場所まで火砕流は到達しませんでしたが、朝から雨が続いていたことに加え、火砕流によって発生した火山灰が周囲を覆ったため視界が著しく悪化しました。

この火砕流は溶岩ドームより東へ約5キロ付近まで到達しました。

この時、取材陣等が居る場所へ火砕流が流れたことにより、多数の死傷者、行方不明者が発生しました。

報道陣等はタクシーをチャーター、社用車のエンジンをかけたまま道路に止めており、すぐに避難ができる状態にしていましたが視界が非常に悪く、逃げ道となる風上からも風によって火砕流が流れていた影響でほとんど退避できませんでした。

また、取材陣等が居た場所から数百メートル離れた場所では、消防団員が火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断したことにより、水無川を確認しに行ったところ、火砕流に襲われました。多くの消防団員はそのまま自力で避難しましたが、重度の熱傷と気道損傷といった被害を負いました。

火砕流に対しての対応についてですが、近年火砕流といった災害がなかったこととから、規模、発生の頻度、その影響が十分に把握できず、発生後直ちに適格な対応が取れない状況でした。その後の対策には、人命を守るという観点で警戒区域の設置をするなどの対策が生まれていきました。

 

大火砕流発生後 ~ 終息まで

出典:https://www.jiji.com/jc/d4?p=unz002&d=d4_news#photo15

 

火砕流発生後、地域住民に追い打ちをかけた災害として土石流があります。流れた火砕流は地形的に大きな溝を作る形となってしまいました。そこに大量の火山噴出物や火山灰、木々が堆積している状態となり、そこに大量の雨が降ることによって火山堆積物が水とともに流れる現象を土石流といいます。

土石流は下流にある民家を襲う事になりましたが、火砕流の時とは違い、土石流は予想出来たため住民避難が既に実施されていたことから、土石流での死者、行方不明者は0人でした。

しかし、土石流が流れた後は何も残らず、家屋は流されました。倒壊した家屋は2500棟以上といわれています。

6月3日の大火砕流発生以降、島原市と深江町は人命を守ることを目的として法律に基づき警戒区域を設定しました。警戒区域とは危険地帯への立ち入りを制限、禁止するもので、違反者には罰金を課すことができるものです。警戒区域設置によって、人命を守るといった目的は達成できました。

しかし、警戒区域設定の長期化に伴い、住民が立ち入りできない影響で産業等の被害が深刻になりました。

また、頻繁かつ同時多発的に発生する火砕流、土石流によって災害対策に混乱が生じるようになりました。

災害情報がスムーズに伝達が出来なかったこと、デマやマスコミの過剰な反応等災害時の情報伝達の問題点が浮き彫りになりました。

その後、国、県、自治体によって、「火山監視システム」、「土石流監視システム」、「情報伝達システム」が整備されていきました。これらの整備により人命の確保という点はより強固になりました。また映像の一元化という意味でも目的は達成されました。

情報伝達方法の見直しも併せて実施されました。今までは火山観測所から情報が発信されると県の機関を通して、各自治体に伝達されるといった流れだったものを、同時並行で各自治体へも伝達されるように仕組みを変更しました。

また、1991年(平成3年)6月3日の大火砕流が発生した際、「非常に危険な状態になった」と観測所から電話連絡があったが、最終的には「山の様子がおかしい」といった形で、情報が正しく伝わらないいうことが発生しました。また情報の伝達記録が正確に残っていないことも問題点とされていました。

これらの内容を改善する対策も併せて実施されました。

1995年(平成7年)2月には溶岩ドームの成長が停止したことが確認され、その後、1995年(平成7年)12月に陸上自衛隊による島原災害派遣が撤収を行い、1996年(平成8年)5月20日、島原市と小浜町)(現在の雲仙市)が溶岩ドームを「平成新山」と命名しました。そして、1996年(平成8年)6月3日に噴火活動の終息宣言が出されました。

その後、平成16年4月5日 平成新山が国の天然記念物に指定されました。

平成19年には、日本の地震百選に選定され、平成21年8月22日に日本で初めての世界ジオパークに認定されました。名称は「島原半島ジオパーク」と命名されました。

ちなみに、ジオパークとはジオ(地球、大地)とパーク(公園)を合わせた言葉です。世界ジオパークは35か国127地域にあり、日本には島原半島を含み8か所あります。(平成29年9月時点)

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雲仙普賢岳噴火に関する被害を数値化すると・・・

出典:https://www.jiji.com/jc/d4?p=unz002&d=d4_news#photo21

雲仙普賢岳噴火に関する被害を数値化すると以下の通りです。

死者 40人
行方不明者 3人
建物被害 2511棟(うち生家は1399棟)
火砕流発生回数 9432回(H3.5 ~ H8.5)
土石流発生回数 62回(H3.5.15 ~ H12.3.31)
土石流による総流出土砂量 760万立方メートル
国道の不通(国道57号) 817日(H3.6.3 ~ H7.4.28)
国道の不通(国道251号) 196日(H3.6.8 ~ H3.12.20)
鉄道の不通(島原鉄道) 1698日(H3.6.4 ~ H9.4.1)

他の災害に比べ、死者数等は少なく感じる方もいると思いますが、被災した方は長期間避難生活を余技なくされた方がたくさんいます。

また、当時は現在の被災者に対する国の法律もなく(阪神淡路大震災後に制定)、雲仙岳災害対策募金等で得たお金を利用して、被災者に対して食事等の提供を行ったそうです。少なくとも災害に対する対策をどうすべきかを考えさせられた災害の一つだと思います。

動画

まとめ

雲仙普賢岳の災害は、火山灰、火砕流、土石流によって、人の命や生活を奪い去った災害です。この災害によって、火砕流の恐ろしさ、土石流の凄まじさを世間が認知することになったと思います。

地域住民にとっては絶対に忘れることが出来ない災害ですが、近年になかった火砕流等の災害を通じて得た教訓を今後に役立ててほしいと思います。

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