野球ファンの方はもちろんですが、あまり野球に詳しくない方でも大谷翔平選手は知っている!という方が多いのではないでしょうか。
最近の活躍で名前を知った方もいるかもしれませんが、大谷選手への期待や熱狂の高まりは最近始まったものではありません。
この度、アメリカメジャーリーグデビューを果たした大谷選手は、周囲の期待をはるかに上回る信じられないほどの活躍をしています!
本当に素晴らしいです!
そんな大谷選手ですが野球選手では珍しい投打の両方が優れている二刀流の選手で、同じく二刀流として大活躍をしたベーブルースの再来とまで言われています。
ベーブルースは野球の神様とも呼ばれるほどの英雄として知られていますが、どのような成績を残し活躍した選手なのか気になりますよね~!
そこで今回はベーブルースについて、成績や生い立ちなどをまとめてみました。
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ベーブルースとは?
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ベーブルースは、1910年代~1930年代にかけてアメリカのメジャーリーグで活躍したプロ野球選手です。
ベーブルースは投手として打者としても活躍した、いわゆる二刀流の選手です。
ベーブルースは1895年2月6日生まれで、1648年8月16日に病気のため53歳で亡くなっています。
本名は、ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアで、愛称は「バンビーノ」です。
バンビーノはイタリア語で、男の赤ちゃんを意味し、ベーブルースが童顔だったため愛称とされたようです。
名前にベーブは入っていないの!?と思われた方もいるかもしれませんが、ベーブは「赤ちゃん」という意味で、実はベーブもニックネームだったんです。
ベーブルースの通算成績
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ベーブルースは野球でどのような通算成績を残したのかまとめてみました。
投手としての成績
ベーブルースは投手としては、大リーグ通算94勝46敗、20勝以上を2回含んだ4回の2桁勝利をあげています。
1916年にシーズン9完封をはたし左投手としての完封数の記録として、1978年に破られるまで半世紀以上にもわたる大記録を残しました。
また、1916年には最優秀防御率のタイトルを獲得しています。
ベーブルースはこれらの素晴らしい成績だけではなくて、投手として変わった記録ものこしています。
それは、ベーブルースが先発した試合で1死も取れず審判の判定にクレームをつけて退場処分を受けたことがありました。
その時、ベーブルースの後を受け継いだ投手がその後ランナーを一人も出さずにノーヒットノーランを達成したのです。
この試合でベーブルースは勝利に全く貢献していませんが、継投によりノーヒットノーランを初めて達成した投手の一人でもあります。
打者としての成績
ベーブルースの打者としての成績は、通算714本塁打・本塁打王12回・打点王6回・首位打者1回などの数々の大記録を残しています。
これらの数々の素晴らしいベーブルースの成績ですが、すでに何人かの選手に追い越されていますが、投手のタイトルまで取った選手はいません。
日本では、長嶋茂雄さんや王貞治さんなどが野球界の英雄として語り継がれていますが、アメリカではそれ以上と言ってもいいほどの英雄とされています。
ベーブルースが残した成績からいかに偉大な選手だったの知ることができますが、もっと詳しく知るためにベーブルースの生い立ちや活躍をまとめてみました!
すると、ベーブルースがプロ野球選手として活躍するまでには、波乱万丈の人生があったことがわかりました。
ベーブルースの波乱万丈の人生!野球との出会いは?
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1895年2月6日、ベーブルースはボルチモアの波止場にある家庭に生まれました。
その地域に住む住民たちは貧しく粗野で、荒っぽい環境にあったそうです。
ルースの父親は居酒屋を経営していて母親と9人の兄弟姉妹と一緒に居酒屋の2階で生活をしていました。
父親は仕事で忙しくて相手にはしてもらえず、母親も病気という環境だったためか、ルースは7歳という年齢で非行に走ることとなりました。
たとえば、学校には行かずに造船所を徘徊したり、万引きや喧嘩、タバコやお酒を常習などなど。
そんな7歳で非行に走ってしまった息子を見かねた両親はルースを更正施設と隣接した孤児院「セント・メアリー少年工業高校」に送ることにしたのです。
学校が大嫌いなルースでしたが、そこで人生を変える運命の人と出会うこととなりました。
その人とは、その更正施設で教官をしていたブラザー・マシアス・バウトラーのことで、このマシアス神父こそがルースに野球を教えた人物だったのです。
このマシアス神父は、ルースのために野球のルールからやり方などを一から休み時間まで返上して教えました。
最初は威圧感を感じて距離を置いていたルースでしたが、マシアス神父のことを父親のような存在に感じ、期待に応えるかのように野球の才能を発揮していきました。
そしてルースが19歳になった時、またしても人生を変える運命の人と出会うこととなりました。
20歳から投手として大活躍!
ルースが19歳の時、ボンチモア・オリオールズ(※現在のオリオールズ球団とは無関係)のオーナー兼監督だったジャック・ダンが練習の視察に訪れ、たった30分ほどで才能を認められ契約を年俸600ドルで結びました。
当時の600ドルは約6万6000ドル(約800万円)に相当する金額だったそうです。
野球にプロがあることすら知らなかったルース少年が、この契約によって人生を変えることとなりました。
オリオールズのメンバーになった時に、チームメートに「ベーブ」というあだ名を付けられて、この時からすでに「ベーブルース」と呼ばれるようになりました。
その後、ボストン・レッドソックスへ移籍をして、ベーブルースは1年目からメジャーデビューをし、20歳で迎えた2年目から2年間は投手として素晴らしい成績を残しました。
その成績はと言いますと…
1915年(20歳) 18勝8敗 防御率2.44
1916年(21歳) 23勝12敗 防御率1.75
1917年(22歳) 24勝23敗 防御率2.01
でした。
ベーブルースは若くしてその才能が開花していたんですね!
素晴らしいです!
二刀流としての才能を発揮!
メジャーデビュー2年目から投手として大活躍したベーブルースですが、打者としても才能を見せていました。
ベーブルースはメジャーデビューをしてから1917年までの4年間に打者として、361打数108打点、打率2.99の成績を残し、ホームランも9本放ちました。
その後、1918年からは打者としての出場も増やしていき、投手と打者の二刀流という形で試合に望み、誰もが驚く圧巻の成績を残していったのです。
気になるその成績はと言いますと…
投手成績 20試合 13勝7敗、防御率2.22
打者成績 317打数95安打・ 打率.300 11本塁打・66打点
でした。
ベーブルースは投手もこなす二刀流だったため、打席数に制限があるにもかかわらず、なんと本塁打王まで獲得してしまったのです。
近年のプロ野球選手を見ていても、投手で本塁打王を獲得する選手はいませんよね。
ベーブルースは、この翌年以降から本格的に打者へと転向することを決め、この決断がその後の歴史を塗り替えることとなりました。
野球のあり方を変えた!
ベーブルースが本格的に打者へ転向するまでは、本塁打王のタイトルは年間ホームラン10本前後で獲得することができていました。
また、当時はホームランを放ってもあまり評価されない時代だったようです。
そんな時代でしたが、1919年以降ベーブルースのホームランは炸裂しました。
また、同年にはレッドソックスのオーナーだったハリー・フレイジー氏が借金を抱えて財政難になり、その流れから12月に当時では破格の10万ドルで、ベーブルースをニューヨークヤンキースに売却することとなりました。
レッドソックスはこのことがかなりの痛手となり、その後負け続きの道を歩むこととなってしまいました。
このベーブルースを失ったことによる、チームの失敗のことをスポーツメディアが「バンビーノの呪い」とたとえ、世間に広まりました。
1919年のホームラン29本をはじめ、1920年ヤンキースに移籍すると54本のホームランを放ち、翌年には59本という記録を残しています。
ベーブルースは、1918年にホームラン11本で本塁打王を獲得していましたが、本格的に打者に転向すると、あっさりと前年の倍以上の成績を残したのです。
これにより、それまでのメジャーリーグ記録を更新して、その翌年からも連続で本塁打王を獲得し、通算では12回も獲得しました。
当時、ベーブルースがホームランを放つたびに観客が大熱狂しました。
ベーブルースはそれまであまり評価されていなかったホームランを大きな楽しみに変えていきました。
また、当時は1919年発生したブラックソックス事件(簡単に言うと八百長事件)によって、野球界への不信感も高まっていたのですが、ベーブルースはその不信感を払拭するだけでなく野球人気をさらに高めることに成功したのです。
ベーブルースはアメリカでプロスポーツの1つだった野球を、最大の人気スポーツまでに押し上げたことで「アメリカ球界最大の巨人の1人」と称されています。
大スターにもスランプあり!
大活躍により野球界の大スターになったベーブルースですが、非行に走っていた頃の悪い癖が出てしまい、生活が乱れ練習も真面目にやらなくなってしまい、体型も太り成績も落ち込んだ時期がありました。
その頃心配した人たちによってパーティーが開かれて、のちにニューヨーク市長になったジミー・ウォーカー氏に「アメリカの少年たちにとって夢や希望の星であり、英雄でもあるきみが、少年たちを裏切ってもいいのか」と言われました。
この言葉にベーブルースは涙を流して覚醒し、再び以前のように練習に励むようになりホームランを放つようになったそうです。
忍び寄る衰えの影!引退への道
野球の神様と呼ばれたベーブルースにも衰えの影が見え、ヤンキースでの最後の年となった1934年の試合の成績は、高水準でしたか全盛期と比べると低学しており、選手としての限界も悟り始めていました。
1935年、40歳になったベーブルースはボストン・ブレーブスに移籍しました。
相当の期待と共に迎えられ、開幕戦では大観衆を集めて人気の健在を見せつけました。
5月25日に行われた試合では3本のホームランを放ちましたが、5月30日の試合で途中交代すると2日後には現役の引退を表明しました。
この年はチームが大きく低迷していたため、有終の美を飾ることはできませんでした。
引退後の早すぎる死
ベーブルースは引退の3年後、ブルックリン・ドジャースの一塁コーチに就任しましたが1年で辞任をし、その後もメジャーリーグの仕事に関わることはありませんでした。
1946年6月13日、ヤンキー・スタジアムの開場25周年記念祝典にベーブルースが参加をし、彼が付けていた背番号3が永久欠番になることが決まりました。
1948年7月26日、自伝映画の「ベーブ・ルース物語」の試写会に参加したのを最後に姿を見せなくなり、1948年8月16日に53歳の若さで亡くなりました。
死因については、食道癌や咽頭癌など色々言われています。
その後、ベーブルースの亡骸が2日間ヤンキー・スタジアムに安置されて、合計で約15万人が別れを告げに訪れたとされています。
いかに、多くの人たちに愛された英雄だったことがわかりますね。
新旧二刀流!ベーブルースと大谷選手のあれこれを比べてみました!
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現在、アメリカメジャーリーグで大活躍している大谷選手ですが、現代のベーブルースとも言われています。
そこで、ベーブルースと大谷選手には何か共通点があるのか、勝手に比較してみました!
ベーブルース
生年月日・1895年2月6日
血液型・A型
出身地・メリーランド州ボルチモア
身長・188cm
体重・97.5kg
投球・打席 左投左打
プロデビュー年齢・19歳
大谷翔平
生年月日・1994年7月5日
血液型・B型
出身地・岩手県奥州市
身長・193cm
体重・92.1kg
投球・打席 右投左打
プロデビュー年齢・19歳
勝手にあれこれ比べてみましたが、共通点はというと、プロデビュー年齢が19歳ということぐらいしかありませんでした。
大谷選手の方が背が高くスリムで、これは個人的感想になりますがイケメンです!(笑)
まとめ
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ベーブルースについてのまとめはいかがでしたでしょうか?
ベーブルースは二刀流として成績を残しているのですが、打者に専念するようになってからの成績がずば抜けていて強烈だったため、打者としての記憶が残っている人が多いようです。
日本でもベーブルースは打者としてとても有名で、投手としてはあまり扱われていませんでした。
しかし、二刀流の大谷選手の活躍により同じ二刀流の選手として活躍した選手として注目をあびるようになりました。
死後何十年も経過してから再び注目を浴びて、ベーブルースも喜んでいることだと思います。
大谷選手は今まで、投打のどちらかに専念するべきという批判も浴び続けてきましたが、結果を出してそれらの批判をねじ伏せてきました。
今後の活躍がとても楽しみですね!
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
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