8月15日は「終戦の日」です。
終戦の日とは日本政府が「戦争で亡くなった人たちを追悼して平和を願う日」と定めた日なのですが、意外と知らない人も多いかもしれません。
「終戦記念日」とも呼ばれていますが、記念日と呼ぶことに違和感や抵抗感を覚える人も少なくないため、NHKや一部メディアでは終戦の日と統一しているようです。
この記事でも終戦の日と統一させて頂きます。
私はこれまでお恥ずかしながら終戦の日についてあまり考えたことがなかったのですが、8月15日には各地で政治団体やNPO団体などが平和集会を開いているようです。
知らないことがまだまだありそうです!
そこで今回は、日本人でも意外と知らない終戦の日についての知っておきたい知識をまとめてみました。
終戦の日とは
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終戦の日とは第二次世界大戦が終了した日のことですが、終戦を迎えるまでの経緯をまとめてみました。
まず、1945年7月26日第二次世界対戦末期にアメリカやイギリス、中国が日本に対して降伏を求めるポツダム宣言の文書を提示しました。
ポツダム宣言とは?提示された経緯は?
1945年7月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳が集まり、第二次世界大戦後の処理について話し合うためのポツダム会談が開かれました。
ポツダム宣言とは、この会談中にアメリカ・イギリス・中国が共同声明とし、日本へ降伏要求を発表した宣言のことです。
1943年頃から連合国がドイツ・イタリア・日本に対し無条件での降伏を求める方針を明らかにしていました。
当時、ソ連やイギリスは条件を限定した方が良いとしていましたが、最終的にアメリカのルーズベルト大統領の意見が通ったようです。
ポツダム宣言の大半はアメリカが考えて、イギリスが修正をしました。
このポツダム宣言が発表された時には、日本側には選択肢がなく連合国側が一方的に有利な内容だったため、日本政府はすぐに受け入れることはしませんでした。
しかし、1945年8月に広島と長崎に原子爆弾が投下されたことにより、多くの犠牲者を出してしまいました。
これを受けて昭和天皇がポツダム宣言受諾の決意をしました。
この昭和天皇の決断は聖なる判断とのことで、「聖断」(せいだん)と呼ばれています。
その後、日本政府が1945年8月14日に受諾して9月2日にアメリカのミズリー戦艦上で調印しました。
これにより日本の敗戦が正式に決定したのです。
第二次世界大戦が終戦したのは9月2日ですが、なぜ終戦の日は8月15日なのでしょうか?
この理由には諸説あるようですが、8月15日に天皇が国民や軍人に向けて「日本政府はポツダム宣言を受け入れて降伏します。」という内容を、玉音放送(ラジオ)で伝えた日だからという説が有力とされています。
玉音とは、天皇の肉声を意味しています。
天皇の影響力がとても強い時代だったことがわかりますよね。
いかがでしょうか?
これだけ見てみると、原子爆弾が投下された後に日本の中枢部が急速にまとまって、終戦に向けてスムーズに進んだように見えますよね。
しかし、終戦への道のりには立ちはだかるものがあったのです。
終戦までの道のりに立ちはだかったものとは!?
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昭和天皇のご聖断によって降伏が決定された直後に1つ目の壁が立ちはだかりました。
日本が連合国へ提示した条件に対しての回答「subject to」
それは、受諾するにあたって日本が連合国側へ提示した「国体維持を条件に降伏する」という条件に対しての連合国側からの回答に「subject to」という言葉が入っていたためです。
この言葉をどう翻訳するかについて、中枢部がポツダム宣言即時受諾派と絶対反対派にわかれてしまいました。
それは、大本営が「隷属する」と訳して、外務省は「制限の下における」と訳したためです。
連合国からの回答が届いたのは8月12日で、翌日の13日に開かれた閣議では明確な結論が出ないまま3時間にもおよびました。
そこで、業を煮やした第42代内閣総理大臣の鈴木貫太郎は「本日の閣議のありのままを申し上げて、明日の午後に聖断を仰ぎ奉る所存であります」と発言し、これが閣議の結論となりました。
そして8月14日に御前会議が開かれて、再びご聖断が下されポツダム宣言受諾の最終決定がなされたのです。
陸軍の将校たちが企てたクーデター「宮城事件」
8月13日、ポツダム宣言受諾の最終決定がなされたのと前後する形で2つ目の壁が立ちはだかろうとしていました。
それは降伏に反対で本土での決戦を望んでいた陸軍の将校たちが企てたクーデターである「宮城事件」です。
宮城(きゅうじょう)とは、1948年7月1日以前の皇居の呼称でした。
宮城事件は、畑中少佐を中心として数名が一時宮内省を占領し、省内に保管されていた玉音放送の原盤を奪い取り放送を阻止しようとした事件のことです。
玉音放送は8月14日の23時30分から録音されましたが、録音を終えて宮内から出てきたNHKの録音技師と下村宏情報局総裁が捕らえられて監禁されたことで、宮城事件が始まりました。
終戦の日である8月15日前日の、14日深夜から宮城事件は動き出したのです。
次に、宮城事件について詳しくまとめてみました。
終戦直前のクーデター!「宮城事件」
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宮城事件に命を差し出した人もたくさんいますが、事件に関わったことで殺害されてしまった人もいました。
クーデター参加を拒否したことによる2人の犠牲者が!
それは、近衛第一師団長の森赳(もり・たけし)近衛師団長で、皇居の警備にあたっていました。
当時、森近衛師団長は義理の弟である白石中佐と会談中に畑中少佐たちの強制的な訪問を受けて、クーデターである宮城事件への参加を迫られました。
この時の森近衛師団長は否定的な態度を示しましたが即断は避けて「明治神宮を参拝した後に決断する」と言いました。
この発言に畑中少佐は腹を立てて一旦退席しましたが、同行者数名を引き連れて再び森近衛師団長の部屋に戻りました。
同行者である窪田少佐の後の証言によると、畑中少佐が黙ったまま拳銃を森近衛師団長に向けて発砲して、少佐の下である上原大尉が肩口を斬りつけたとのことでした。
白石中佐も窪田少佐により首をはねられて亡くなっています。
森近衛師団長と白石中佐はクーデターの参加を拒否したことにより、宮城事件の犠牲者となってしまったのです。
宮中が占拠された!
2人の殺害後に、畑中少佐は師団命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を利用して皇居を占領しました。
そして、昭和天皇の玉音放送を阻止するため、放送会館に近衛歩兵第一連隊を差し向けたのです。
畑中少佐たちは森近衛師団長だけでなく他の人たちにもクーデターへの参加をことごとく断られたため、大規模なクーデター計画は無理だと判断して、昭和天皇の玉音放送を阻止することを目的に変更しました。
玉音放送の原盤は見つからず!
宮中を占拠していた者たちは昭和天皇が録音された玉音放送の原盤を求めて探し回りました。
しかし、時すでに遅し。
既に徳川義寛侍従の手により、皇后宮職事務室へと移されており、首謀者たちが玉音放送の原盤を手にすることはなかったのでした。
宮城事件の鎮圧までの経緯
8月15日の午前4時頃、宮中を占拠していた近衛第二師団連隊に外部からの電話連絡が繋がり、これにより森近衛師団長が殺害された事実と師団命令が畑中少佐の偽造である事実が伝えられました。
これにより、連隊を率いていた芳賀連隊長は畑中少佐らに宮中からの即刻退去を求めて、クーデター計画が崩れ始めました。
8月15日午前5時頃、日本が本土決戦の為に温存しておいた軍隊である東部軍の田中司令官が、自ら近衛第一師団連隊の元に向かい師団命令が偽造であることを伝え、部隊の展開は中止されました。
その後、田中司令官は芳賀連隊長の元へ向かい午後6時過ぎに連隊長に兵士の撤収を命令しました。
近衛師団の撤収が成功すると、田中司令官はその足で宮内省などへ宮城事件の鎮圧を伝えました。
そんな中、畑中少佐が放送会館にて決起の放送を行おうとしていたのですが、東部軍からの電話連絡にて宮内での計画失敗を知り、放送を断念しました。
宮城事件のその後
宮城事件の首謀者である、畑中少佐と椎崎二郎中佐は宮中の近辺で決起を煽るビラ撒きをしました。
そして、玉音放送が始まる直前の午前11時頃に2人は、二重橋と坂下門の間にある松林に正座して自決しました。
さらに、師団の参謀であった古賀秀正は玉音放送が放送されている中、亡くなった森近衛師団長の遺体の前で自決しました。
古賀秀正については、宮城事件に積極的に参加していたのではとの話もあります。
そして正午に国歌の君が代が流された後に、昭和天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」無事に放送されたことによって、日本の降伏が全国民に知らされることとなったのです。
いかがでしょうか?
クーデターである宮城事件が終わったからこと、日本が終戦の日を迎えることができたことがわかって頂けたかと思います。
戦争を終わらせる難しさが実感できますよね。
宮城事件については、いくつか映画化もされているようですので、機会があれば臨場感あふれる映像を見てみるのもいいかもしれませんね。
終戦の日はどうして祝日(休日)ではないの?
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終戦の日は「戦争で亡くなった人たちを追悼して平和を願う日」ということですが、平日ですよね。
このような大切な日であれば休日でも良いのでは?との意見もあるようですが…。
①終戦の日は日本が戦争に負けた日であるため祝日にするのは不謹慎であること。
②8月15日はお盆休みの時期と重なっているためそもそも休みにする必要性がないこと。
が理由にあるようです。
もちろんお仕事の方も多いかと思いますが、やはり世間的にはお盆休みの時期ですので、わざわざ休日にする必要はなさそうですね。
終戦の日に行う黙祷とは?正しいやり方は?いつやればいいの?
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終戦の日には黙祷をしますが、特に若い人たちの中には黙祷とは何か知らない人もいるかもしれませんね。
私は今までに黙祷をする機会は何度もありましたが、意味がよくわからずに周りの人の真似をしていました。
それではいけませんよね。反省です。
黙祷とは?
黙祷とは、何がしかに声を出さずに祈る行為のことで、心の中で対象に語りかけたり自分の気持ちをみつめ考えて整理するものです。
黙祷の「黙」はだまる、「祷」は祈るという意味です。
日本での黙祷は、すでに亡くなった人に対して祈る気持ちを表す際にも行われます。
そのため、終戦の日などに戦死や戦没者への慰霊の意味を込めて黙祷が行われる行事があります。
終戦の日の黙祷の時間は?
終戦の日の正しい黙祷の時間は正午(12:00)から1分間です。
時間については正式な決まりはないようですが、終戦の日に開催される平和式典などで1分間としているのでこれと同じで良いでしょう。
これは、先ほども言いましたが昭和天皇が玉音放送にて国民や軍人にポツダム宣言の受諾を発表した時刻が正午だったためです。
また、戦争で亡くなった兵士や軍人たちを靖国神社で祀っているため、靖国神社の方向を向いて黙祷をするのが正しいそうですよ。
高校野球ファンであればよく知っているかと思いますが、終戦の日は夏の甲子園が行われている時期でもあります。
そのため、8月15日に試合をしている高校球児たちは正午に一旦プレーを中断して黙祷を捧げています。
ちょっとした豆知識でした!(笑)
まとめ
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終戦の日についてのまとめはいかがでしたでしょうか?
日本人でも意外と知らないことも多いですよね!
現在の日本からは過去に戦争をしていた時代があるなんてとても信じられませんが、多くの人たちが日本のために戦って亡くなっています。
もう二度と戦争は繰り返してはいけませんよね。
そのためにも、終戦の日にあらためて命の大切さを考えてみるのもいいかもしれませんね。
子供たちには年齢に合わせて絵本を読んで伝えてみてはいかがでしょうか。
戦争で亡くなった人たちがゆっくりと眠れるように、終戦の日には思いを込めて正午に黙祷をしようと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!