みなさんは、戦後の日本文学界を代表する作家の一人である三島由紀夫をご存じでしょうか?

三島由紀夫はノーベル文学賞の候補になるなどし、日本だけでなく海外でも広く認められた作家でもあります。

とても有名な人物ですので、作品は知らなくても名前は聞いたことがある人も多いかもしれませんね。

そんな三島は、自営隊員に憲法改正を訴えてクーデターを起こし未遂に終わりましたが、その後に割腹自殺を遂げるという衝撃的な結末の「三島事件」を起こしています。

三島事件は三島の思想上の問題や政治や社会の隠れた問題が絡み合っているため、表面化できない部分も多く謎も多く残っています。

三島はなぜ、このようなクーデターを起こそうとしたのでしょうか。

そこで今回は、社会に強い衝撃を与えた三島事件についてわかりやすくまとめて、真相に迫ってみたいと思います。

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三島由紀夫とは

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三島由紀夫は、1925年(大正14年)1月14日生まれの日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家、皇国主義者です。

本名は、平岡公威(ひらおか きみたけ)です。

三島は海外でも広く認められており、『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初めての日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもあります。

三島の代表作は、小説では『仮面の告白』『潮騒』『鏡子の家』『憂国』などがあります。

戯曲には『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがあります。

三島は晩年、政治的な傾向を強めて自衛隊に体験入隊して、民兵組織の「楯の会」を結成しました。

1970年(昭和45年)11月25日に「楯の会」メンバーと自衛隊の市ヶ谷駐屯地にて、東部方面総監を監禁し、バルコニーでクーデターを促す演説をした後に自決をしました。

この三島事件は、世間に大きな衝撃を与えて新右翼が生まれるなどし、国内の政治運動だけでなく文学界にまで大きな影響を及ぼしました。

三島事件については、次で詳しくまとめています。

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三島事件とは?わかりやすく説明します!

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三島事件の経過の様子をわかりやすく振り返ってみたいと思います。

まず、1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃に、三島由紀夫(当時45歳)は「楯の会」のメンバー森田必勝(当時25歳)、小賀正義(当時22歳)、小川正洋(当時22歳)、古賀浩靖(当時23歳)と共に、東京の自衛隊市ヶ谷駐屯地にいる自衛隊東方部面総監部の益田兼利総監を訪ねました。

この訪問は予め約束をしていたため、すんやり入ることができました。

この日は「楯の会」の例会が開かれる予定で、例会で表彰する「優秀な部員」として森田ら4人を表彰する予定のため正装してきたと説明し、益田総監に一人一人紹介しました。

総監室では三島は総監と向かい合って座り、その他の4人は三島を囲小さい椅子に座りました。

三島は軍刀造りの名刀である関の孫六を益田総監に見せました。

益田総監から返された刀を鞘に「パチン」と音を立てて収めるのを合図として森田ら4人は益田総監の両手を縛って椅子に拘束して、机やロッカーでバリケードを作りました。

益田総監は成長した様子を見せるために冗談でこんなことをしているのかと思っていたようですが、三島が刀を抜いたまま睨んでいたため、ただ事ではないことに気がつきました。

隣室の音に驚いて11人の幹部が中に入ろうとしました。

そして、総監を救助するために部屋に入った5人に対して三島たちは「外に出ないと総監を殺すぞ!」と言い放ち、飛びかかったり背後から斬りつけたりするなどして何人かに傷を負わせました。

室外に退散した幕僚たちは三島と話し合うために、11時30分頃に廊下から総監室の窓ガラスを割りました。

そして、吉松1佐が窓ごしに三島を説得しましたが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と要求書を割られた窓ガラスから廊下に投げました。

その要求書について重要な箇所をわかりやすくまとめてみました。

要求書

①11時30分までに市ヶ谷駐屯地の全自衛官を本館前に集合させること。

②自衛官に三島の演説をきかせること。

③「楯の会」会員を市ヶ谷駐屯地に召集させること。

④自衛隊は午後1時10分までの2時間攻撃をおこなわないこと。

これらの条件が全て守られれば、総監の身柄は安全に引き渡すが、守られなければ三島が総監を殺害し自決する。

などが書かれていました。

三島の要求書が受け入れられた!

幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることにしました。

午前11時40分頃、自衛隊側はマイクで市ヶ谷駐屯地内の自衛官全員に向けて、本館前に集合するように放送し800人が集合しました。

午前11時46分頃、警視庁は三島たちに対して逮捕を指令しました。

駐屯地内にはパトカーや警務隊の白いジープが次々と入ってきていました。

この頃にはテレビやラジオで事件の第一報を伝えていました。

午前11時55分頃、森田と小川は要求項目を総監室前のバルコニーからたらして「檄」(げき)を多数散布しました。

檄は、三島の最後の声明文です。

原稿用紙で9枚ほどの長さの文章でB4の紙2枚に三島の肉筆でびっしり書かれていました。

この「檄」は、様々な誌面や三島論で引用されることの多い声明文でもあります。

正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響きました。

そこに、日本刀関の孫六の抜き身を右手に掲げた三島がバルコニーに立ちました。

日本刀が見えたのは、ほんの一瞬のことでした。

三島は「七生報國」と書かれた日の丸の鉢巻きを頭に巻いていました。

七生報國とは、七たび生まれ変わっても朝敵を滅ぼし国に報いるという意味です。

三島の右背後には同じ鉢巻きをした森田が仁王立ちをして、正面を凝視していました。

そして三島は、集合した自衛官たちに向けて白い手袋をした拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めました。

バルコニーでの三島の演説

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三島の演説は、日本を守るために健軍の本義に立ち返れという内容で、憲法改正のための決起を促す演説で多数散布された「檄」とほぼ同じ内容でした。

上空ではマスコミのヘリコプターが騒音を出して何台も旋回していました。

三島は演説にて、このような状況で自衛官に話すのは悲しいと言いました。

そして、「10月21日の国際反戦デーに行われたゲリラ闘争は、自衛隊の治安出動もなくて圧倒的な警察力による機動隊に鎮圧されて、自衛隊は憲法改正の機会を失った。

日本を守ると言うことは、天皇を中心とする歴史と文化を守ることだ!

俺は自衛隊が立ち上がる日を4年待っていた!」

などと語りました。

三島の演説は、ヘリコプターの騒音や自衛官たちによる野次や怒号もあって、ほどんど聞こえない上にしばしば中断されました。

三島は最後に天皇陛下万歳三唱をして演説を終了させました。

三島はなぜ演説でマイクを使わなかったのか?

三島の演説は騒音や野次などでほどんど聞こえなかったようですが、どうせならマイクを使えば良かったのにと思われた方はいませんか?

これには理由がありました。

三島は生前、神風連の精神性に少しでも近づくことに重きを置いていたようなんです。

神風連は西洋文化を嫌って、日本刀や弓、やりなどの日本古来の武器のみで戦っていました。

三島はそれを慕っていたため、あえてマイクや拡声器を使わずに雄叫びの肉声にこだわりました。

このことは過去の対談で、神風連があえて日本刀だけで戦った意味などを語っています。

三島の肉声での演説を見ていた人たちの中には、マイクを届けてあげたかったと語っていた人もいるようです。

しかし、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜもう少し心を静かにして聞かなかったのか」という声もあります。

三島の演説の全容は、文化放送がマイクを木の枝にくくり付けて録音していたため、騒音や野次などが大い中でも三島の声を良好に録音することに成功したようです。

三島の肉声を録音できたとは、文化放送は特大スクープだったことでしょう。

三島が割腹自決へ!

午後0時10分頃、三島は総監室に戻って「あれでは聞こえなかったな」と独り言を言いました。

三島は森田に「お前はやめろ」と言い、長靴を脱いで上着のボタンを外して、ズボンを押し下げて床に座りました。

そして、鋭い短刀を腹に刺すと右に向けて横一文字に引きました。

介錯(かいしゃく)に選ばれた森田は三島の背後に立って刀を振り上げて三島の首を打ち落とす瞬間を待っていました。

介錯とは、切腹する際に本人を即死させて負担や苦痛を軽減するために、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為のことです。

森田は介錯をしましたがうまく切れずに失敗し、古賀が介錯をしました。

続いて森田が、血まみれの三島の胴体の脇に膝まづいて三島が使用した短刀を手に取って腹を刺したが、切り口が浅くて失敗しこちらも古賀が介錯をしました。

残された小賀、小川、古賀の3人は涙を流し、三島と森田の遺体に制服を掛けて両名の首を並べて合掌しました。

そして、益田総監の縄を解いて深々と頭を垂れてから、日本刀を自衛官に渡しておとなしく警察官に逮捕されました。

最終的に三島と森田が自決をするという衝撃の事件は終結することとなりました。

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三島由紀夫はなぜ自決しなければならなかったのか?

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三島事件をわかりやすく一言で言うとするならば、三島が自身の命をもって日本国憲法の改正を訴えたクーデター未遂事件です。

1970年頃の日本は、高度成長期で日本国内ではテクノロジーを中心として様々なものが発展していきました。

しかしながらこの景色は、三島の目には日本が墜落していくようにしか見えなかったのです。

三島は、軍国主義のような生活や男らしさのある志が必要と感じていて、そのような男たちが自衛隊隊員の中にいると信じていました。

また、三島は保守派であり日本国憲法が国を守る存在の自衛隊を、まるで存在していないかのように扱っていることに憤りを感じていたのです。

三島は国や自衛隊を本当に思っていて、憲法改正のためにクーデターを決行しようとしたことはわかりましたが、なぜ自決までしなければならなかったのでしょうか。

三島が残した「檄」によると、自決の理由として挙げられるのは大義のための犠牲です。

これからの日本を考えたときに、国防軍であるべき自衛隊が憲法で否定をされていては、日本がダメになってしまう!との思いがあったとされています。

この状況を変えるための大義名文として自決をし、自身を英雄として改革の土台としようとしたということですね。

また、この他にも三島の自決理由にはさまざまな意見があります。

①三島には絶頂期にこそこの世をさるべきだという価値観があったため、事件当時が自身の絶頂期と考え自決したのではないか。

②自決前年の建国記念日に、国会議事堂前で遺書を残して世の中を警め、覚醒を促すために焼身自殺をした青年に影響を受けたのではないか。

②三島は自身の性同一性障害に悩んでおり、男性性の究極の形である自決を喜んで選んだのではないか。

③三島がノーベル賞を受賞すると思われていたのに予想外に川端康成が受賞したことにより嫌気がさしたからではないか。

さまざまな三島の自決理由が飛び交っていますが、本人が亡くなっているため本当の理由にはたどり着くことができませんね。

しかし、もしノーベル賞を受賞していたら…。

特異な才能を持つ三島のその後の活躍を見てみたかったですね。

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まとめ

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三島事件についてわかりやすくまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか?

三島事件は、三島たちが日本国憲法改正を訴え同士を求めたクーデターでしたが、自衛隊員はヤジばかり飛ばし賛同する者はおらず、クーデターは未遂に終わりました。

三島事件は、三島の一人よがりの事件だったのでしょうか…。

三島は最後に自決をしてこの世を去ってしまったため、三島の一連の行動や残された書物などは現在でも語り継がれ、いまだに議論されています。

どれほど当時の世の中に与えた影響や衝撃が強いものだったのかがわかりますよね。

もし、あの時自決していなければ特異な才能を文学で発揮していたかもしれないと思うと残念です。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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