伊豆大島の中心にある、三原山を知っていますか?

三原山は火山で噴火を繰り返していますが、今から30年前に500年ぶりの大噴火を起こしました。

三原山は観光客も訪れる場所で、その大噴火の時に流れ出た溶岩が今でも残り、当時の噴火のすさまじさを伝え続けています。

また、1986年11月の三原山噴火の時には島民約1万人全てを島外に脱出させる大作戦が慣行され、ケガ人や死者を出さずにすみました。

その後、その噴火から30年となる2016年11月には、島民に対する避難訓練も行われました。

再び三原山が噴火する日も近いのでは?という予測も出ています。

そこで今回は、三原山噴火についてまとめました。

1986年の噴火の時には、噴火口のすぐそばにいる人影が撮影されたと話題になりました。

今回は、その人影の真相にも迫ってみたいと思います。

人影の歩く様子が分かる動画もありますよ!

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三原山ってどんな所?

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三原山は、東京都南部に位置する伊豆諸島の大島の大半を占める複式活火山です。

富士火山帯に属していて、玄武岩質の安山岩から出来た、約40個の寄生火山がありす。

三原山は、外輪山に囲まれた直径が3~4Kmのカルデラの中にある円錐状の中央火口丘のことを言います。

最も高い峰の最高点は、中央火口丘にある三原新山で758mです。

これは伊豆大島の中で最高峰となっています。

『三原』の名前の由来は、出産のように溶岩や土石流を噴出することから、子宮や体内を表す『御腹(みはら)』から名付けられたとされています。

観光地としても人気があり、火口を周遊するための散歩道や、カルデラ壁西部には観光バス終点となる、御神火茶屋と呼ばれる展望台なども整備されています。

そして、1986年の三原山噴火の時には『ゴジラ岩』が形成されて、名所になっています。

三原山の火山活動史

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伊豆大島では、約2万年前から現在まで、合計で100回前後の大噴火が起きたと考えられています。

そして、三原山は大噴火の記録が多くて、近世以降にも1552年、1690年、1777年~1778年、1951年に大噴火が起きました。

その後、1986年11月15日に噴火が始まり、そのまま11月20日まで断続的に続きました。

深さ300mある火口は溶岩で埋まり、あふれ出た溶岩はカルデラ床に流出しました。

11月21日にはカルデラ床に割れ目噴火が起きて、外輪山の斜面でも発生しました。

カルデラ外の噴火が15世紀以降初めてだったたこともあり、島民全員が島外に避難する大事態となりました。

1987年11月には、再噴火により火口に没落が生じました。

この噴火による噴出物の総量は約7000万tで、1951年の大噴火の噴出量をやや上回りした。

噴火は古くから御神火と呼ばれて仰がれてきました。

そして、火口低の溶岩が夜空にはえる現象の『お映え』や立ち上る噴煙が、多くの観光客を魅了しています。

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1986年に起きた島民全員避難の三原山噴火とは

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12年ぶりの噴火

1986年11月15日に、三原山が12年ぶりに噴火しました。

当時その風景を見るために、全国各地から観光客が殺到しました。

伊豆大島は収入源の7割を観光に頼っていたため、久し振りの賑わいにチャンスを逃すまいと、役場も喜びを隠さずに、全国に向けての宣言活動を始めていました。

そして、噴火開始から1週間後には、観光客を噴火口の側に近付けるための話し合いを、警察としていました。

11月21日16時15分、会議の終わった直後に突然、大音響と一緒にものすごい揺れが島を襲いました。

それは、それまでとは比べ物にならないくらいの大噴火で、噴煙は上空8000mにまで到達する勢いでした。

それまでの観光気分は一瞬にして吹き飛びました。

誰も経験したことのない激しい揺れと大噴火で、マスコミが中継機材をまとめ始めた様子を見て、町役場も事の重大さを理解しました。

すべてを任された町助役の秋田壽

その後、大島町役場は直ちに対策本部を設置しました。

対策本部の本部長には、当時大島町長だった植村秀正によって、町助役だった秋田壽が指名されました。

秋田は、1957年の三原山噴火を知る数少ない現役の職員で、大島生まれの秋田は役場に勤めて30年で、島の事情も知り尽くしていました。

1957年の三原山噴火とは、中規模の噴火でしたが1人の死者を出し、45人がケガをしてしまいました。

その原因は、役場の避難命令の出し遅れだと激しく非難されました。

その時に秋田も、役場の一員として避難の誘導をしていました。

秋田はまず、火山の専門家や東京都の役人、大島の警察署長、消防団団長、それに加えて島の交通網を握っている東海汽船の支店長を呼びました。

そして、全員で会議室に缶詰になりました。

秋田は1957年の三原山噴火の時に、犠牲者を生んでしまった原因である火山弾を最も恐れていました。

火山弾は、火口から飛び散ったマグマが固まって出来たもので、大きいもので重さが50Kg以上もあって、直撃すれば死者を出してしまう恐れもあります。

火山弾は火口から風に乗って飛びますが、この日の風は、泉津方面に向かって強く吹いていたため、秋田は泉津の住民に避難命令を出しました。

泉津の住民はお年寄りが多くて、3人に1人が65歳以上でした。

短時間で避難させなければならないが、避難を拒むお年寄りや、激しい揺れのため腰を抜かしてしまい動けないお年寄りもいました。

20歳になると全員が消防団に所属しているため、その中から50人の若者達が集まりました。

そして家々をまわって、お年寄りをおんぶして運びました。

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全島民脱出作戦

三原山噴火は、想像以上の規模に膨らみ始めていました。

18時には三原山の山すそに11個ほどの噴火口が出来て、そこからマグマが一斉に噴出し、溶岩が住宅に向けて山を降り始めました。

噴火口が山すそまで広がってしまったのは、500年ぶりのことで役場は騒然となりました。

そして、大島内には40個以上の噴火口が存在していて、それらの噴火口か一斉に火を噴いてしまったら、島の中には逃げる場所がもうありませんでした。

島民達は追い詰められて港に向かい、多くの人々であふれ返っていました。

秋田は、町長に全島民を島外に逃がす決断を迫りました。

その後、マニュアルはなかったが、メンバーが知恵を絞り対策本部の全員が動き始めました。

船の手配が最も急がれて、東海汽船の重久支店長に、その任務が託されたが、会社の船だけでは足りないため、海上保安庁や島内の漁船などにも応援を求めました。

避難を迅速に行うためには、電気が絶対に必要でした。

住民のパニックを防ぐことにもつながるからです。

しかし、発電機の1つが地震で壊れてしまったため、発電所に残っていた7人の所員が交換の作業に取り掛かりました。

故障場所からは70度の熱湯が溢れ出していたが、熱さにたえながら24個ものボルトを固く締めました。

噴火から3時間が過ぎても噴火の勢いは収まらず、島民達は船の到着を待ち続けていました。

19時30分過ぎには、東海汽船、海上保安庁、自衛隊、近隣の島の漁船など30隻以上の船が沖に集結していました。

そして、順々に船に乗り始めれば、朝までには全員が島から離れられるめどがたちました。

しかし、溶岩流が方向を変えて、島民達が船を待っている元町港にものすごいスピードで迫ってきました。

脱出作戦を変更!しかしその時!

三原山噴火から4時間が過ぎて、溶岩流は元町まで数百mまで迫っていたが、その時1200人の島民が港にいました。

秋田は、溶岩流が港に押し寄せて来る前に全員が船に乗ることは不可能だと判断し、島民を別の港に遷す決断をしました。

そこから移動出来る港は、15Km離れた波浮の港だったが、途中に落石の危険や、大昔に大噴火を起こしたこともあり不安もありました。

しかし秋田は、波浮への移動を決意しました。

移動手段は、東海汽船の路線バスを使う方法しかなく、元町港に残っていた38人の運転手が集められ、島民の移動作戦が始まりました。

最後のバスが出発した直後に、波浮の海に高温のマグマが海水に触れて起こる、水蒸気爆発の予兆が見られました。

しかし、この時バスに無線がなく、バスに異変を知らせることが出来ないまま、バスは波浮港に向かいました。

波浮港には水蒸気爆発爆発の危険がある上に、元町港には溶岩流が迫ってる状況でした。

秋田が判断に苦しんでいた時に、元町港に向かう溶岩流のスピードが落ちたという情報が飛び込んできました。

秋田は、波浮港に到着したバスに、再び元町港に戻るように指令を出しました。

対策本部は、溶岩流のスピードを考えて、朝6時までに島民全員の脱出を追えることを決めました。

秋田は、発電所を守り続けていた7人の所員に発電機をつけたまま、最後の船に間に合うように港に向かって欲しいと伝えました。

最後の船が接岸するためには、明かりが絶対に必要だったからです。

そして、最後の船が接岸する4時22分、発電所に残っていた所員が避難の準備を始めていた所に、東京の本部から最小限の所員を島に残して欲しいと連絡が入りました。

無人では発電機が暴走して、大事故を起こす可能性があるからです。

リーダーの米本が自分が残るので、あと2人残って欲しいと頭を下げた所、残り6人の所員全員が手を上げました。

そして、米本は部下達に感謝し、年の順に上から2人選び、3人で力を合わせて発電機を守り続け、明かりを一度も止めることなく避難する島民達を照らし続けました。

最後の避難船が出発

4時27分、最後の避難船が元町港に入港しました。

そこには、島民を運び終えたバスの運転手38人が集まっていて、対策本部のメンバーも船に乗り込んでいった。

その時、島に残ることを決意した秋田が船から下りました。

大噴火から13時間40分、5時10分に最期の避難船が出港し、島民全員の脱出作戦が完了しました。

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三原山噴火から1ヶ月後

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全島民の脱出から1ヶ月後、ようやく三原山の噴火が収まって1約万人全員が戻れる日が来ました。

秋田と、発電所の所員3人は、三原山噴火以降、1度も島を離れることなく島を守り続けていました。

桟橋には38台のバスが並び、島民一人一人を自宅へ送り届けました。

みなさん無事で本当に良かったですね。

あれほどの大噴火で、ケガ人や死者を一人も出さずにすんだことが奇跡だと思います。

衝撃映像!噴火口付近に、いるはずのない歩く人影が!?

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三原山噴火で、全島民の避難が進んでいた中でも、噴火の映像を捉えるために山中や噴火口付近には、カメラマン達が潜入し続けていたと言われています。

そして、フジテレビが撮影した火口付近の映像に『歩く人影』が映っていると特番などで度々取り上げられました。

そして今回、その衝撃的な動画がありましたのでぜひご覧下さい。

 

動画をご覧頂けたでしょうか?

衝撃的ですよね!

はっきりと人が歩いている姿が分かります。

この人影は、いまだに都市伝説として語られていることも多いそうです。

この動画に映っている人影はとても有名で、フランスの火山研究者であるクラフト夫婦ではないか?と言われました。

世界中の火山の噴火現場でクラフト夫婦の姿が目撃されていたためです。

しかし、クラフト夫婦の記録には三原山噴火については残されていませんでした。

火口付近の映像に映る人影の真相

人影の正体は、火山撮影を専門としていた民間人のカメラマンである、青木章であったことが、本人の証言によって明らかになっています。

そして、このカメラマンは噴火中に長時間山中に滞在し続けたため、全島民避難の時には、行方不明者とされたそうです。

この動画の正体はすでに明らかになっていたんですね!

個人的には、動画の人影は都市伝説のままでいて欲しかった気もしてしまいます。(笑)

全島民避難から30年

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三原山噴火での全島民避難から30年が経過した、2016年11月21日、次の噴火に備えて避難訓練が行われました。

その訓練は、三原山噴火が起こり避難指示が出た想定で行われ、船で速やかに島外に避難する手順が確認されました。

30年前の噴火の時には、溶岩流が住居方向にせまりましたが、約1万人の住民が島から避難したおかげで、ケガ人や死者はいませんでした。

大島では、30年前に比べて高齢化が進み人口も減少して、そのためにバスも半減しています。

次の噴火に備えて、新しい避難マニュアルを早急に作ることが課題となっています。

まとめ

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三原山噴火のまとめはいかがでしたでしょうか?

全島民脱出作戦が無事に完了し、ケガ人や死者を出さずにすんだことがとても良かったですよね!

また、避難せずに島に残り、島を守り続けた4人には脱帽でした。

噴火口付近で撮影された人影の真相は、カメラマンという事実でしたが、そのカメラマンもケガもなく無事だったそうなので、良かったです。

三原山の大噴火は約30年周期とされているため、次の噴火も近いのでは?と予測されています。

30年前とは状況も違いますが、万が一噴火が起きてしまっても、前回のようにケガ人や死者が一人も出ないことを祈ります。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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