先日、噴火の可能性が低いとされる「噴火警戒レベル1」だった群馬県にある草津白根山が噴火して、死者1名と重軽傷者11名の被害者を出し、火山の噴火に大きな注目が集まりました。

日本には、噴火の可能性を表す噴火警戒レベルが適用される火山が38もあります。

その中でも、2000年に17年ぶりに噴火した三宅島は2500年ぶりとも言われるほどの噴火をし、全島民が避難を余儀なくされるまでになりました。

当時は大きく騒がれたので注目が集まっていましたが、近年は火山活動も落ち着いているので、あまり注目されていませんよね。

先日の草津白根山の噴火でも分かるように、噴火の予測は非常に難しいとされています。

そのため、過去に起きた噴火で生まれた教訓を生かすことがとても大切になります。

そこで今回は、大きな被害を出した噴火の中から三宅島にスポットをあて、三宅島噴火の歴史や被害について振り返ってみたいと思います。

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三宅島とは

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三宅島は、東京から南へ約180kmに位置する伊豆諸島の島です。

年間の平均気温は17.7℃で、30℃を超えたり0℃以下になる日が少ないため、1年を通して温暖な気候でとても住みやすい島です。

三宅島はこれまでに、雄山を中心として激しく噴火することもあって、火山噴火予知連絡会により、火山防災のため監視や観測体制をさらに充実させる必要がある火山に選定されています。

そして、気象庁により火山活動度ランクAの活火山として、常時観測対象火山に指定されています。

行政区域は三宅島の島全体が東京都三宅村に属していて、島全域が富士箱根伊豆国立公園になっています。

三宅島の島名の由来は、いくつかあります。

家が三つ並んでいるように島のかたちを見立てて三宅島とした「家三つ説」や、式内社が12社あることからお宮を象徴とした島名の宮家島を起源とした「式内社説」火山の噴火が多いため御焼島を起源とした「御焼島説」などがあります。

島名の由来がいくつもあるのは、歴史が古く文献によって説が異なるためです。

江戸時代は流刑地とされており、1,000人以上の人が約200年間の間に三宅島に送られ、江島生島事件の役者である生島新五郎などの墓があります。

三宅島噴火の歴史

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三宅島では、有史以来噴火がたびたび発生していて噴火の記録が残されています。

現在も年に数回程ごく小規模な噴火が発生していて、とても噴火が多い島となっています。

そこで、三宅島噴火の歴史をまとめてみました。

三宅島の噴火は1085年、1154年、1469年、1535年、1595年、1643年、1712年、1763年、1811年、1835年、1874年、1940年、1962年、1983年、2000年に噴火したとの記録が残されています。

いかがでしょうか?

噴火の回数がとても多いですよね~!

最近の500年間だけを見てみると、平均して50年の間隔で13回の噴火が起きていて、明治時代以降だけでも5回の噴火を記録しています。

これだけ三宅島噴火の歴史はありますが、この中でも特に語られている噴火は、近年の1983年と2000年に大きな被害を受けた噴火についてです。

そこで、この2つの噴火について詳しくまとめてみました。

近年大きな被害を受けた三宅島噴火

三宅島噴火の歴史を語る上で重要な、近年大きな被害を受けた1983年と2000年の噴火についてみていきましょう!

1983年の噴火

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まずは、1983年10月3日に発生した三宅島噴火についてです。

10月3日13時59分頃、三宅島測候所の地震計に噴火の前駆的微動が記録され始めました。

そして15時23分頃、雄山南西山腹二男山付近に生じた割れ目から、溶岩噴泉の噴火が始まりました。

三宅島測候所では、微動記録開始から噴火が始まるまでに5回、体に感じる地震が記録されました。

噴火は雄山南西山腹二男山付近から始まったものでしたが、それが上下に成長して割れ目火口になりました。

その後、火口から谷筋を流下した溶岩流が3方向に流れて、南南西に流れたものが粟辺辺地区の都道を横切り、海中にまで到達しました。

そして、西方に流れ出たものが阿古地区にある400棟を超える住家を、埋没させたり焼きつくすなどして、海岸近くまで流れて止まりました。

それから16時40分前後には、島の南部である新澪池付近と新鼻海岸付近でマグマ水蒸気爆発が発生して、多量の岩塊が周辺に落下して、多量の火山灰が当方の坪田周辺に降り積もりました。

新鼻海岸付近では火口が開口しましたが、溶岩の流出は翌日の早朝にはほとんど止まりました。

1983年10月3日に発生した三宅島噴火による損害は、住宅の埋没や焼失などが400棟あり、山林耕地などにも被害がありましたが、人的な被害はありませんでした。

多くの被害はありましたが、人的な被害がなくて本当に良かったですよね~!

この噴火による噴出物の総量は、溶岩流や火山灰など合計で2000万トンで、噴火前後には101回の体に感じる地震がありましたが、最も大きいものは10月3日のマグニチュード6.2で震度5でした。

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2000年の噴火

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2000年に発生した三宅島噴火は、全島民が避難することにもなりテレビなどでもよく取り上げられるため、記憶にある人も多いと思います。

三宅島噴火の歴史を語る上では、外せない噴火ですのでもう一度振り返ってみましょう!

2000年6月26日18時30分頃、三宅島南西部を震源とした小さな火山性地震が観測され始めて、それが次第に活発になっていきました。

予想では南部~西部での噴火の可能性が高いとみられていましたが、火山性地震の震源が26日の21時頃からは島の西部へと移動しました。

そして、27日にはさらに西方の沖合いへ移動し、ヘリコプターの観測によって西方沖の1km付近で、海底噴火が原因とされる変色水が発見されました。

これらの現象は、三宅島の南西部に貫入していたマグマが西方の海域へと移動したためと推定されました。

その後も、地震の震源がさらに西方沖へと移動して、神津島近海ではめずらしい規模の活発な群発地震活動になり、最大マグニチュードは6.5で震度6弱でした。

海底噴火が発生した後は、三宅島の地震活動は低調になって、地殻変動のデータの変化傾向が鈍化していきました。

29日になると、「噴火の可能性はほとんどなくなりました」と、火山噴火予知連絡会伊豆部会がコメントを発表しました。

これを受けて、三宅島は26日から発令していた避難勧告を全面的に解除して、三宅村や気象庁などの災害対策本部も廃止となりました。

しかし、7月4日頃三宅島の雄山山頂直下が震源とされる地震が観測され始め、それが活発化していきました。

7月8日18時41分頃に、小規模な噴火が山頂で発生しました。

これによって、雄山山頂付近に直径が700~800mの円形の陥没地形が出来たことが、翌日のヘリ観測で確認されました。

そしてこの陥没は拡大して、約1ヶ月の間に直径1.5kmで深さが450mのカルデラが出来ました。

8月10日、噴煙の高さが8000mに達する程の大きな噴火が発生し、その後も断続的に噴火が観測され、18日には噴煙の高さが14000mに到達しました。

この噴火では、西側山麓で降灰が厚さ10cmになり、中腹は噴石が50cm、山麓では5cm程の火山礫が落下しました。

その後、8月29日の噴火では低速で低温の火砕流が発生して、山頂から北東側に5kmと南西側に3km流れて、北東側は海まで流れました。

さらに、雨による泥流も頻発して、8月31日に火山噴火予知連絡会が「今後、高温の火砕流になる可能性もある」と発生し、9月1日に全島避難が決定しました。

これにより、約4000人の島民が島外での避難生活をすることになりました。

9月まで噴火は続きましたが、その後は山頂火口からの火山ガスの大量放出活動になりました。

観測を開始した8月下旬の二酸化硫黄の放出量は1日約2000トンでしたが、9月~10月は1日約2~5万トンの二酸化硫黄の放出が観測され、その後の火山活動は低下し火山ガスの放出量も減少していきました。

この間にも、小規模な噴火は時々発生して山麓では降灰もありました。

三宅島噴火による避難指示が解除されたのは、2005年の2月1日のことでした。

三宅島噴火で生まれた教訓

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三宅島噴火は陥没カルデラが発生する過程を目撃した、世界で始めてのとても貴重な噴火となりましたが、それによって火山の防災対策の面では色々な課題を残すことにもなりました。

一つの火山が毎回同じ噴火をするわけではありません。

数千年に1回だけ起こる可能性がある噴火で、確率的には低いものでも実際に起こることもあるのです。

先日の草津白根山の噴火は、3000年ぶりの噴火だと言われています。

2000年の三宅島噴火では、細粒火山灰の大量放出に土石流災害が重なるなど、過去の噴火では経験したことのない事態にもなりました。

そして、火山噴火が起きなくても有毒ガスが多く含まれる火山ガスが発生すれば、避難しなければならないことも分かりましたね。

やはり三宅島噴火の教訓としては、避難生活の課題が大きいと思います。

全島民が避難することになった三宅島噴火ですが、島の児童たちは一足先に多摩地域の全寮制の秋川高校に避難して、そこで生活を送りながら2学期を迎えました。

そして、島民たちは代々木の国立オリンピック記念青年総合センターにいったん入りはしましたが、東京都が都内各地にある公営住宅の空き家を提供したため、そちらに移動しました。

この素早い東京都の対応は、過去に起きた伊豆大島の全島避難の教訓に基づいたものでした。

この時の三宅島噴火での島民避難は、噴火活動がさらに活発になる可能性を考えて指示されたものでしたが、想定していた噴火らしい噴火は殆どありませんでした。

しかし、避難した直後から二酸化硫黄を大量に含む火山ガスの放出が続いたため、最終的には2005年の2月まで島に帰ることは出来ませんでした。

この4年半の長い避難生活は、問題を発生することにもなりました。

まず、島の児童たちを全寮制の秋川高校に入れたことにより、授業を続けることは出来ましたが、児童と親が隔離されたことになり、児童を避難先に引き取る家庭が増えていき半年後の生徒数は激減してしまいました。

また、島と同じように生活出来る環境を整えるために、素早く公営住宅を提供しましたが約4000人の島民を一緒に収容できる空き家はないため、各地に散らばり近隣に住んでいた住民と離れ離れになってしまいました。

これが、島のコミュニティの分断の問題にもつながりました。

約4年半という長い避難生活の中で、生活の基盤が都内に移り避難が解除されても帰島を断念する人も多く、島の人口が大きく減少することにもなってしまいました。

避難生活は、噴火だけでなく地震でも抱える問題で、現在もある問題です。

命を守るための避難生活は必要なものですが、日常生活を全て破壊してしまうものでもあります。

避難生活の質を守りながら、コミュニティをどうやって維持するかも重要な問題となりました。

三宅島噴火の教訓として、この難しい問題に今後どうやって取り組んでいくかも考えなければなりませんね。

まとめ

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三宅島噴火の歴史や、被害についてのまとめはいかがでしたでしょうか?

2000年に発生した三宅島噴火では、全島民が避難生活を余儀なくされました。

その避難生活で生まれた教訓が多くあります。

また、先日の草津白根山に噴火では、予期せぬ突然の噴火によって死者も出てしまいました。

噴火の予測は専門家でも難しいとされています。

身近に火山がある人は噴火の話題が上がるたび、不安になるかと思います。

いざ噴火が発生しても、前回と同じ噴火とは限りませんし、前回をはるかに上回る噴火の場合もあります。

同じ結果を繰り返さないためにも、過去の噴火を振り返って対策を考えることがとても大切だと思いました。

現在は噴火警戒レベルによって、火山活動の状況を把握することも出来ますので活用していきたいですね!

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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