1997年11月、北海道拓殖銀行(以下、拓殖銀行)が都市銀行として初となる経営破綻をしました。

拓殖銀行は過去に特殊銀行でもあり、地元に根付いた歴史のある都市銀行で、北海道にとっては一番の都市銀行でした。

大企業だった拓殖銀行が破綻したことにより関連企業が倒産したり、故人の自己破産が増えるなど、日本経済に大きな爪痕を残しました。

あれからもう20年が過ぎました。

北海道の顔とも言われた拓殖銀行の破綻理由は一体何だったのでしょうか?

そこで今回は、拓殖銀行の破綻理由をあらためて振り、現在についてもまとめてみました。

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拓殖銀行とは

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拓殖銀行は、正式名称「株式会社北海道拓殖銀行」で、かつて存在していた日本の銀行です。

第二次世界大戦終戦までは北海道の開拓という大きな事業を経済的に支援するために設立された、政府の金融機関の特殊銀行でした。

その後は、業務をそのまま継承して都市銀行として1998年まで存在しました。

呼び名は色々あり、一般的には拓銀(たくぎん)と呼ばれて浸透していましたが、北海道内の一般市民の間では「拓銀さん」、北海道以外のマスコミなどからは北拓(ほくたく)と呼ばれて多くの人たちから親しまれていました。

本店は札幌市に置き北海道を地盤としていました。

北海道以外では東京都や埼玉県、千葉県、神奈川県、宮城県、愛知県、大阪府、京都府、兵庫県の各都道府県にも支店を置いて、香港やニューヨークに海外支店を置いていました。

拓殖銀行は大手銀行の一つではありましたが、都市銀行の中では一番規模の小さい銀行でした。

拓殖銀行の歴史

拓殖銀行は、特殊銀行から都市銀行になったという歴史があり、北海道の開拓をするための経済的な支援をする目的で設立されたのがはじまりでした。

1899年に北海道 拓殖銀行法を制定し、1900年に設立され、明治時代だったこともあり北海道の開拓がはじまったばかりの頃でした。

具体的に何が行われたかと言うと、拓殖債券を発行して北海道以外からの資金を調達することによって、北海道内の農業などに融資を行ったりしました。

そして、第二次世界大戦前までには事業を拡大して樺太(からふと)支店も持つようになりましたが、終戦後にはGHQによって業務停止を命じられました。

1950年に拓殖銀行法が廃止され、業務を引き継いで民間の都市銀行として営業することになりました。

特殊銀行から都市銀行になっても、北海道を中心として多くの道民や商業界が利用する、北海道で最大手の銀行へと成長していきました。

拓殖銀行の破綻理由は?

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拓殖銀行の破綻理由を語る上で、重要なのはバブル景気です。

拓殖銀行はバブル景気に、不動産の開発に力を入れていました。

バブル景気に不動産の融資を開始

拓殖銀行は長い間、大蔵省出身の頭取が続いていていましたが、1977年には五味彰が生え抜きとして2人目の頭取になり、1983年には同じく生え抜きとして、鈴木茂が3人目の頭取に就任しました。

2代続けて生え抜きの頭取が誕生したことによって、拓殖銀行内では業容拡大への盛り上がりを見せました。

1985年頃から、邦銀がバブル景気に乗り不動産の融資に力を注ぎ地価が高騰し、それは首都圏から三大都市圏を中心として、日本全国へ広まっていきました。

しかし、北海道の場合は景気の波が都市圏よりも遅れてたどり着きます。

拓殖銀行も他の都銀と同じように、北海道以外の拠点としていた東京営業部や、大阪支店を通して不動産の融資を始めました。

不動産の融資が本格化したのは1988年の頃で、数年遅れた形となりました。

他の都銀はすでに収益競争をするまでになっていたため、拓殖銀行と他の都銀との差は広がり、横浜銀行や千葉銀行などの地方銀行にまで追い上げられていました。

拓殖銀行の焦りは募り、鈴木頭取は拡大路線をとりました。

通常であれば土地の評価額の70%の程の融資しか行わないが、バブル景気時はその時の土地の評価額の120%~130%の融資を行いました。

この融資は、拓殖銀行だけではなく多くの金融機関が行っていたことでしたが、拓殖銀行は進出が遅れたため、他の金融機関がすでに担保としている土地に対して、劣後順位で担保設定をするしかありませんでした。

これは、万が一借りての不動産会社が破綻した場合に回収可能分が減ることになり、その後現実のものとなってしまいました。

これらの背景には、1990年に策定された「たくぎん21世紀ビジョン」があります。

これは、1989年頭取に就任した山内宏が前鈴木頭取から拡大路線を受け継いで、米国のコンサルティング会社に依頼したものです。

当初は「道内でのリーディングバンク」や、「本州でのニューリテール」、「アジアでの海外戦略」を三本柱としていましたが、拓殖銀行幹部の提案によって「企業成長・不動産開発支援」が最終的に付け加えられました。

拡大路線を頭取時代に決定した鈴木茂会長と、80年代後半に不動産開発支援の陣頭指揮をとった佐藤安彦副頭取、1990年の「たくぎん21世紀ビジョン」がスタートした時に陣頭指揮をとった海道弘司常務の3人は「SSKトリオ」とも呼ばれました。

そして、「SSKトリオ」が事実上人事権を握ることになり、ワンマン体制を作り上げて拓殖銀行の拡大路線を推し進めていったのです。

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拓殖銀行に総合開発部が新設

「たくぎん21世紀ビジョン」では最終的な付け足しに過ぎなかった「企業成長・不動産開発支援」のインキュベーター戦略が、北海道にバブルが到達した時に主役と見なされるようになりました。

そして、これを担うための「総合開発部」が拓殖銀行に新設されました。

そこには渉外や契約を担当する業務推進グループと、融資の適正を検査するための審査グループがありました。

しかし、業務推進グループが8名なのに対して、審査グループは2名と人員配置から審査機能が軽視されていました。

総合開発部は第1部と第2部に分かれていて、札幌と東京を受け持っていました。

すでに総量規制の通達が出されたり、地価も日経平均株価も下落に転じていたため、東京を受け持っていた第2部はバブルの終わりを感じていました。

そして、第2部は不動産融資の凍結を決定し、1991年10月に設置から1年で廃止されました。

一方の第1部には危機感は通じることなく、その後も勢いに乗って乱脈融資を広げていきました。

特に、カブトデコムとソフィアの2社への建設費融資はとても巨額なもので、開業後には赤字として、バブル景気崩壊後には不良債権としてあらわれてきました。

カブトデコムは、2008年に洞爺湖サミット主会場として知られている現在の「ザ・ウィンザーホテル洞爺」を1993年に建設し、1998年に営業停止になり2002年に売却されました。

ソフィアは、現在の「ガトーキングダム・サッポロ」を開発し、1998年に閉鎖されました。

拓殖銀行破綻!現在は?

1994年以降、拓殖銀行の信用ががた落ちになり、1995年には開業以来の赤字決済になりました。

そして、企業格付けランキングではEランクに位置づけられるほどに弱体化し、株価は安値を更新続けることになり、預金解約も相次ぎました。

そして、1997年は拓殖銀行の破綻の噂が絶えない年となりました。

破綻直前には、合併先や営業譲渡先を探しているなど、さまざまなニュースがありました。

そして、11月17日、18日以降の資金繰りの目処が立たず、経営破綻を発表しました。

営業譲渡先として最初に案が出たのが、北海道銀行で、次に札幌銀行、最後に北洋銀行でした。

北海道銀行では、統合に行員が反対したため計画は白紙になり、最終的には北洋銀行に決定し、109店舗と預金約2兆7千億円を引き継ぎました。

北海道以外の銀行は、現在の三井住友信託銀行に譲渡されました。

法人が終息を迎えたのは2006年のことでした。

まとめ

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拓殖銀行の破綻理由や、現在についてのまとめはいかがでしたでしょうか?

拓殖銀行は、戦後唯一経営破綻した都市銀行という不名誉な記録を残してしまいました。

拓殖銀行の破綻はバブルの象徴とも言われています。

北海道の大半の企業は拓殖銀行と取引があったため、破綻の影響はとても大きく北海道の経済が長期的に沈滞する原因にもなりました。

バブル景気の話しは色々ありますが、北海道の経済に大きな影響を与えていたとは知りませんでした。

今後再びバブル景気になるかは分かりませんが、同じようなことは繰り返して欲しくありませんね。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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