みなさんは、東京佐川急便事件を知っていますか?

当時は政治の大スキャンダルとして世間を騒がせたので覚えている方もいると思いますが、現在はすっかり風化されてしまっています。

1990年代初めの事件なので、年代によっては知らない方もいるかもしれませんね。

東京佐川急便事件とは、日本皇民党のほめ殺し事件を発端とした汚職事件です。

当初は佐川急便事件と呼ばれていましたが、その後再び佐川急便が関係する贈収賄事件が発生したため、区別するために東京佐川急便事件と呼ばれるようになりました。

今回は風化されつつある東京佐川急便事件について、知らない方でも理解できるようにわかりやすくまとめてみました。

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東京佐川急便事件の概要

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東京佐川急便事件をわかりやすくまとめるために、まずは事件の発端となった皇民党事件から順番に振り返ってみましょう!

皇民党事件とは

1987年、竹下登は自民党次期首相最有力候補とされていましたが、稲川会系の右翼団体である日本皇民党による執拗な「ほめ殺し」の攻撃を受けていました。

ほめ殺しと言われてもよくわかりませんよね。

ほめ殺しとはだめにするためにほめることで、わかりやすく簡単に言ってしまえば「嫌がらせ」です。

ほめ殺しは直接的に相手を罵倒するのではなく短所を取り上げて、うまくオブラートに包み表現することによって相手にダメージを与える方法のことです。

例えば、日本一金儲けがうまい竹下登を総理にしよう!などとほめます。

ほめ殺しは名誉毀損にはならない方法で、主に右翼団体が相手を罵倒する時に行われます。

竹下登がほめ殺しを受けていたのは、恩義のあった田中角栄を裏切ったためだとされています。

竹下登はこのほめ殺しをどう対処すれば良いのか、腹心であった金丸信に相談しました。

相談を受けた金丸信は、暴力団と関係があり当時の佐川急便社長であった渡辺広康に、暴力団稲川会前会長の故石井隆匡(本名:石井進)との仲介を依頼しました。

渡辺広康は絶頂期には銀座や赤坂で豪遊し、「政界のタニマチ」としても知られていたそうです。

タニマチとは、ひいき筋のことで一般的には力士の後援者のことをさします。

タニマチの由来としては、明治時代頃に大阪の谷町筋の相撲好きな医者が、力士から治療代を受け取らなかったことから、タニマチと言われるようになったとされています。

渡辺広康は政界だけでなく、芸能界やその他さまざまな方面にも人脈を築いていました。

その人脈をいかして渡辺広康は、石井隆匡にほめ殺しの活動を止めるように頼み、皇民党は竹下登が田中角栄に謝罪の挨拶をしに行くことで、ほめ殺しの活動を中止にすると条件を出しました。

その後、竹下登は田中角栄邸を訪問し皇民党のほめ殺しの活動は中止され、数週間後には竹下登が首相に就任しました。

実際には、この謝罪訪問は門前払いされてしまっていたようです。

渡辺広康はこの仲介が成功したことで、政界に強いコネが出来たことでとても喜んだそうです。

竹下登は首相に就任した後に、金丸信、渡辺広康、石井隆匡と都内の料亭で宴席をもったと世間に伝えられ、政界と暴力団との癒着があることが証明されることとなりました。

これによって、国民の批判は高まりました。

その後、東京佐川急便は石井隆匡と関係のある会社に対して、返済の見込みがないにも関わらず次々と融資や巨額の債務保証などを行うようになりました。

東京佐川急便が債務保証を行った融資の総額は、約4395億円にも上りました。

企業の数は40企業と石井隆匡個人に及び、稲川会が資金を獲得するために経営する企業(フロント企業)は6社で1000億円に上りました。

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バブル経済の崩壊

1991年2月、バブル経済の崩壊によって石井隆匡の利息の支払が滞るようになり、巨額負債の返済が不能になることが確実になりました。

東京佐川急便は、石井隆匡に変更計画を提出するように求めましたが、答えは「更なる資金が必要」で、さらに債務保証をすることになってしまいました。

これにより、東京佐川急便は莫大な債務を負うことになって倒産寸前となり、親会社の佐川急便に吸収されることとなりました。

1991年7月、渡辺広康を含む東京佐川急便の幹部は全員解雇され、その後信託義務違反容疑で起訴されることとなり、9月には石井隆匡が病死しました。

金丸信が議員辞職

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1992年2月、東京地検特捜部は渡辺広康を含む4人を952億円の損害を東京佐川急便に与えたとして特別背任容疑で逮捕しました。

巨額の資金が非合法組織に流れていたため、東京地検特捜部はその後も疑惑の追求を続け捜査は本格化していきました。

1992年9月、金丸信が東京佐川急便から5億円の政治献金を受けていたとして、政治資金規制法違反で略式起訴されました。

その後、金丸信は政治資金収支報告書への記載漏れを認めたため、略式起訴による罰金で幕引きを図りましたが、それで騒動がおさまることはありませんでした。

当時、タレント議員のパイオニア的存在の青島幸男が金丸信の議員辞職を求めてハンガーストライキを決行したのです。

ハンガーストライキとは何かをわかりやすく簡単に説明すると、主張を世間に訴えるために断食を行うストライキの一種のことで、飢餓(ハンガー)によるストライキを意味します。

青島幸男のハンガーストライキは30時間が経過した頃に脱水症状が出てしまい、緊急入院が必要だったため中断するしかありませんでした。

しかし、このハンガーストライキの影響は大きく、青島幸男が「検察庁に抗議ハガキを送ろう!」という訴えに賛同者が多く現れ、世論を動かし、金丸信は議員辞職に追い込まれることとなりました。

東京佐川急便のヤミ献金疑惑が次々浮上

1992年2月、新潟県出身の日本社会党の吉田和子のパーティー券を東京佐川急便が500万円分購入した際に、ヤミ献金疑惑が浮上しました。

これにより吉田和子は辞任、さらに新潟県から選出された社会党の筒井信隆にも献金疑惑が浮上し同じく辞任、東京佐川急便の1億円献金疑惑で新潟県知事の金子清も辞職するなど、次々と献金疑惑が浮上しました。

しかし、大物議員や闇資金ルートは解明されないまま事件は幕を閉じることとなりました。

東京佐川急便事件の真相は!?

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1992年11月、衆議院予算委員会で竹下登に対して社会党が証人喚問を要求しました。

その証人喚問で竹下登は、渡辺広康とホテルで会談したことは認めましたが、その他の明確な回答はしませんでした。

1993年2月、今度は衆議院予算委員会で小沢一郎の証人喚問を行いましたが「お茶くみをしていただけ」と関与を否定し、金丸信の5億円の献金についても「全く知らない」と答えました。

このように、竹下登と小沢一郎の証人喚問はどちらも不発に終了しました。

その後、自民党は社会党の筒井信隆や吉田和子、比例代表の安恒良一を初めとする11名の野党議員の証人喚問を要求して対抗しましたが、真相は明らかにされずに自民党と社会党の信頼が落ちることとなりました。

1993年3月、安恒良一が離党議員辞職勧告を拒否し続け、社会党を除名処分となりました。

その後、安恒良一に1億円以上の所得隠しが発覚し、東京佐川急便によるヤミ献金疑惑が浮上しましたが真相は明らかにされないままとなりました。

まとめ

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東京佐川急便事件についてわかりやすくまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか?

東京佐川急便事件は1990年代前半の政治に大きな影響を与え、政界や経済界だけでなく暴力団とのもたれあいの構図が明らかにされ、社会に大きな衝撃を与えた事件です。

最終的に金丸信は議員辞職をしましたが、5億円の献金や、その他に多額の献金を受け取った政治家たちへの捜査もうやむやに終わり、国民の政治不信が高まる結果となってしまいました。

このような政治の特大スキャンダルも時代の流れと共に風化されてしまいます。

この事件は当時の情勢を振り返る上では忘れてはならない事件ですので、語りついでいかなければなりませんね。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

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