みなさんは、東条英機をご存知でしょうか?
知っている方であれば詳しくはわからなくても、戦争を指導して戦犯として処刑された権力者など、どちらかと言えば悪いイメージがあるかもしれません。
テレビなどで戦争を題材とした番組があれば、極悪軍人の東条英機の姿が描かれていることが多いようですね~。
東条英機とは、はたして本当にそういう人物だったのでしょうか。
また、東条英機には子孫もいるようです。
そこで今回は、東条英機とはどんな人物だったのかをまとめ、子孫の現在についても調べてみました!
東条英機とは
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東条英機とは、太平洋戦争の開戦時に第40代内閣総理大臣を務めていた政治家です。
太平洋戦争の敗戦後に行われた東京裁判では絞首刑が言い渡されました。
絞首刑とは聞きなれない言葉ですが、死刑の一種で絞殺する刑罰のことです。
1948年(昭和23年)12月23日に刑が執行されました。
東条英機はこの時、64歳でした。
東条英機の生い立ち
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東条英機は、1884年(明治17年)7月30日に陸軍中尉であった東条英教の三男として誕生しました。
陸軍中尉というのは、役職は軍部ですがそれほど高い地位ではありません。
東条英機は三男として誕生し2人の兄がいましたが幼い頃に2人とも亡くしているため、実質的には家督を継ぐための長男として育てられました。
1905年(明治38年)、21歳で陸軍士官学校を卒業するとともに、陸軍歩兵少尉に任官されました。
そして、1907年(明治40年)には陸軍歩兵少尉へと昇進しました。
1910年(明治43年)と1911年(明治44年)には、高級士官の登竜門とされていた陸軍大学校の受験に挑戦して失敗していまいましたが、勉強会をして1912年(大正元年)に晴れて入学を許されました。
東条英機はこの時すでに、結婚して子供にも恵まれていました。
1915年(大正4年)に陸軍大学校を卒業すると、駐在武官として海外赴任などをしながら出世をしていきました。
そして、中国に渡ると関東軍にて共産主義へと走った兵士たちの取り締まりや、二・二六事件に係わった者の検挙などをきっかけとして陸軍中佐となり、1940年(昭和15年)に陸軍大臣に、1941年(昭和16年)になると遂に内閣総理大臣に就任したのでした。
東条英機は太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣!
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最初にまとめましたが、東条英機とは太平洋戦争開戦時に第40代内閣総理大臣を務めていた政治家です。
東京裁判の正式名称は、「極東国際軍事裁判」と言って、わかりやすく説明すると第2次世界大戦の戦勝国が敗戦国である日本の指導者たちを裁くための裁判です。
東京裁判では、東条英機だけでなくA級戦犯とされた7名に絞首刑が言い渡されました。
ちなみに東条英機の罪状は、「真珠湾を不法攻撃して、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」でした。
この東京裁判ではなんと、判事の全てが戦勝国から派遣されるなど、最初から日本の指導者たちが有罪になるのが目的のデキレースとも言われています。
しかし現在では、東条英機への海外からの評価が変わりつつあるようです。
東条英機は、軍人でありながら開戦時に内閣総理大臣に就任していたため、A級戦犯として絞首刑が言い渡されました。
そのため、戦後に「開戦と敗戦の張本人だ!」「自分に権力を集中させて独裁的に振る舞った!」などと東条英機を極悪人だとする見方が広まっていきました。
しかし現在、日本が第2次世界大戦で戦った理由についての真実が見直されていくなかで、当時の資料などから昭和天皇の意思を受けて東条英機がアメリカとの戦争を回避しようと尽力していたことがわかってきたのです。
開戦日の明け方には、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができなかったことを悔やみ、首相官邸から皇居の方角に向かい号泣したという逸話があるそうです。
しかし、なぜ本気で戦うことを決意したのかというと「宣戦布告したからには勝たなければいけない!」と思う生真面目な性格も影響したのではないかと言われています。
東京裁判では、東条英機は極悪人に仕立て上げられて昭和天皇が戦犯ではないことを訴え続けてA級戦犯として処刑されました。
現在、東条英機は日本とアメリカの双方にとってのスケープゴートであったのではないかとの見方も出てきています。
スケープゴートとは、身代りや生贄(いけにえ)などの意味合いを持ちます。
つまり、都合のよい存在だったということですね。
東条英機について極悪人のイメージを持っている人も多いですが、現在は東条英機に対する見方がだいぶ変わってきているようです。
東条英機自殺未遂事件
東京裁判の途中に、東条英機は自殺未遂事件を起こしています。
これに対しては責任逃れだとの批判の声もあります。
事件後に東条英機本人は、「自決を促す戦陣訓を示していたのに、自分だけ生き続けることは出来なかった」と語っています。
自殺をしようとして責任逃れだという声もわかりますが、東条英機本人の言葉を聞くと責任感がとても強い人だったという気もします。
東条英機の子孫は?
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東条英機には7人の子供がおり、3人の息子と4人の娘がいました。
長男である東条英隆は首都圏警察に勤め、1936年に結婚して新京神社で挙式をしました。
その後は鴨緑江発電職員になり、弱視のために兵役免除を受けていたものの太平洋戦争末期になると海軍から召集を受けて、横須賀にて終戦を迎えたようです。
敗戦が近づくと、英隆は東条家の通字である「英」を持つこともあって、一家は特に迫害の対象となりました。
そのため、転職や就学もままならず東京から伊豆の伊東に居住して東条英機が収監された巣鴨にも行くことはなかったようです。
次男の東条輝雄は、零戦や日本航空機製造YS-11、航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師です。
輝雄は三菱重工業の副社長を経験し、1981年~1984年まで三菱自動車工業の社長・会長も努めました。
三男の東条敏夫は、息子たちの中では唯一軍人の道に進みました。
敏夫は陸軍予科士官学校に進学し士官学校在学中に終戦を迎え、戦後に航空自衛隊に入隊して空将補にまで昇進しました。
長女の光枝は、陸軍軍人で自衛官、実業家の杉山茂と結婚しました。
次女の満喜枝は、宮城事件で自刃した古賀秀正と結婚し、その後社会学者の田村健二と再婚しました。
三女の幸枝は、映画監督の鷹森立一と結婚しました。
四女の君枝は、アメリカの実業家のデニス・ルロイ・ギルバートソンと結婚して、キミエ・ギルバートソンと名乗っていました。
東条英機とかつ子夫婦の孫は14人とされています。
東条家の中でも、A級戦犯分祀反対を唱えていた東条由布子さんがテレビなどにも出演していたため有名です。
東条由布子は、東条英機長男の娘です。
結婚し名字は「岩浪」になっていましたが、NHKOBの夫が東条家を擁護する活動に岩浪姓を使用することを許されていなかったため、「東条」を使用していました。
しかし、東条家にとっては既に東条姓ではないのに使用していると強い批判もありました。
東条由布子は2013年2月13日、73歳の時に間質性肺炎のため亡くなられています。
さらに、東条英機のひ孫にあたる東条英利は株式会社カルチャージで代表を勤め、神社人というサイトを運営しながら神社ライターとしても活動しています。
現在も東条の姓は受け継がれているんですねぇ~!
まとめ
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東条英機についてのまとめはいかがでしたでしょうか?
戦争を指導して戦犯として処刑された権力者など極悪人のイメージも強くありますが、調べてみると必ずしもそうではないことがわかりました。
東条英機のイメージが変わりました!
また、現在も東条英機の子孫がいることもわかりました。
現在、神社ライターとして活動している東条英利には息子さんがいるそうなので、東条家の血はこの先も受け継がれていくのかもしれませんね。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!